庄兵衛はお奉行様の判断を、そのまま自分の判断にしようと思ったのである。(森鴎外『高瀬舟』)
流罪となった罪人を都(京都)から流刑地に運ぶのが、京都の高瀬川を下る高瀬川であった。物語は、高瀬舟の上で行われる罪人喜助と同心羽田庄兵衛の会話を通して展開される。
喜助が問われた弟殺しの罪は、実は不治の病に冒された弟が兄に負担をかけまいと自殺を試み、死ねずに苦しんでいたところに最後の一押しをしてしまったという者であった。欲のない喜助の人間性*1や、事件の真相を知ると、情状酌量の余地ばかりであるように思われる。
今、PSYCO-PASSというアニメにはまっている。高度なAI(であるとされている)シビュラシステムが人間の犯罪係数を図り、国民は自分のキャリアや配偶者といった人生のほぼすべてをシステムの判断にゆだねている世界である。
作中では、システムがいいと言っているのだからいい、という教条的価値観に疑問を呈する主人公たちの戦いが描かれていく。
いま、喜助の罪に対して、「庄兵衛はお奉行様の判断を、そのまま自分の判断にしようと思った」わけであるが、そこで考えを止めてはいけない。思考停止してはいけない。
彼は一役人であり、考えたからと言って何かができるわけではない。
しかし、考えるか考えないかということと、考えた結果自分に何ができて何ができないのかは、別の問題である。
(問題解決が目的であれば、もちろん自分にできることを前提に考えるべきであるが、これは問題解決が目的の状況ではなく、一人の人間が世界に対して真摯に向き合って生きていくことが目的の状況なのである)
*1:喜助の謙虚な人間性を主張するために、失業し借金をしてきた生活に比べれば、流刑に際して渡される200文の貯蓄がある生活のほうが嬉しいのだというエピソードが挿入されている。流刑はこれまで苦しい生活を送ってきた自分にしてみれば、むしろ望ましいものだと。牢に入る間に提供される食料もありがたいのだと。
人には欲があるものだし、自らの境遇を受け入れられないものだ。不遇であれば不満が生まれ、仮に不便がない生活をしていたとしても、もっともっと良い境遇にあったらと欲が尽きることはない。
しかし、この罪人喜助は、そうではない。弟が病にあっても不平を持たず、牢に入れられても生活が上向いたと言う。流刑になっても貯蓄ができたと言う。
庄兵衛には彼がまぶしく見えた。
「僕たちは頭がいいから」
「学歴がよく、所得が高く、いわゆる社会階層が高い集団の人達が、そうでない人達を見下す場面に遭遇して不快な思いをした」という旨のツイートを見た。そういう状況は実際にいくらでもある。それが不快で、今はツイッタランドとも距離を置いている。
一般的に、人を馬鹿にしていいということはなく、そのような旨を口に出すことは問題である。
しかし、自分の中にそのような感情は時として生まれることはある。それを口に出すことで私は自己嫌悪に陥るだろうし、また、それで自己嫌悪しない人間である/になることは今の私はにとっては喜ばしくない。
従って、それを口に出すことがないように、感情を論理で克服しよう。
また、どのように対応すればいいのかを考えてみよう。
・モラルがないから馬鹿にする
→モラル=社会倫理は、主には環境・教育・所得水準に依存する*1。
モラルのない人間というのは一定数おり、そのような人たちとコミュニケーションをとることで不快になることはある。(貧しく、また教育水準が低くてもモラルがしっかりした人たちはいる。私を不快にするのはモラルのない人達である)
そのような人たちに対してモラルある行動を期待するのであれば、インセンティブ設計を適切に行い環境をデザインするべきである。それができないのであれば、黙って距離を置こう。
・所得が低いから馬鹿にする
→所得格差は、当人の努力よりも当人が置かれた環境のほうが原因としての比重が大きい。そして、当人が置かれた(とりわけ若いころの)環境は、当人が干渉できないものである(故に環境と呼ぶ)。であれば、所得の低いものを蔑むよりも、そのような状況が発生した原因となった社会システムの欠陥を指摘することのほうが建設的である。*2
・頭が悪いから馬鹿にする
→頭の良し悪しという比較は、高度に分業化され身に着ける能力が異なる現代社会では、その比較自体が成立しない。1kgと1オクターブはどちらが優れているか、と比較するようなものである。*3
・醜悪だから馬鹿にする
→これについては、あまり自分が意識したことないな。自分がそこまで容姿に優れていないからだろうか。容姿で人を評価するのは普通に失礼。
・学歴が低いから馬鹿にする
→学歴は、所得/頭の良し悪し/社会的地位/社会的影響力に影響するファクターである。それゆえに、学歴単独で人を評価することにはあまり意味がない。
・学歴と所得の相関について
学歴の上下というものはある。また、学歴をフィルタリングの条件として職業の募集をしている現実があるということは、受け止めなくてはならない。それゆえに、学歴と所得の相関は一定程度存在するといえる。*4。ただ、だから人間的にどうこうという問題ではない。社会人の入り口時点で、高所得の仕事は応募が多いから効率的にフィルタリングをせざるを得ず、ゆえに高所得人気職種はフィルタリングに強い高学歴者が多いという、それだけの問題だ。つまりそれは道徳的是非の問題ではなくコストと効率に起因する事象である。
→つまり、学歴と所得の相関は、選別コストの問題というだけである。もしPSYCO-PASSのシビュラシステムみたいに、個人の適性を見抜いて最適化する仕組みが低コストで提供できる社会環境が整うのであれば、学歴はフィルタリング突破の有利条件にはならず、学歴と所得の相関が減るのであろう。(PSYCO-PASSの世界では、色相/犯罪係数という因子が重視されていた)
*1:住食足りて礼節を知るという言葉や、治安と所得水準の相関が示す通りだ。治安の悪い危険な国?治安の良い安全な国?世界治安ランキングただし、統計的に「その傾向がある」というだけだ
*2:同じ環境下でも所得の高低が発生しているとして、努力をしてこなかったのだと見做すような反論があるかもしれないが、それは所得自体がそこまで魅力的なインセンティブではなかったというだけの話であろう。もしくはインセンティブが隠されているたのだという問題である。それは情報格差があったという意味であり、つまり環境が異なったというだけである。
*3:社会は高度に分業が測られているのであり、この分業体制下では、各人は各人の持っている仕事に応じた視座・視野・視点を職業体験の過程で身に着けるものだ。各人は各人の仕事に最適化されていくといえる。
測定基準は各人が割り当てられた仕事への適合度によって測られるのであって、統一された物差しは存在しない。
故に、頭の良し悪しを比べるとしたら、同じ仕事に割り当てられた二者を比較するべきであって、持っている仕事が違う二者を比較することは無意味である。
従って、頭のいい者が頭の悪いものを馬鹿にした、というとき、もし両者が異なる仕事を割り当てられている場合、無意味な比較をしているだけだと言える。そのような比較に基づいた評価は、無論、無効である。
*4:
陰翳礼讃-谷崎とフェルメールと落合陽一
ダニエルピンクの本*1 によれば、集中力を高めて仕事をするには、午前にみっちり仕事をして、午後はゆっくりと休み、夕方から数時間仕事をする、というサイクルが良いようだ。また、午後には14:50頃/起床から7時間ほどたったタイミングで眠気が来て集中力が下がる午後の谷といわれる時間があるので、この時間にコーヒーを飲んでから休憩をするとよいらしい。
今私はコロナの影響でリモートワークをしており、そのおかげでだいぶ一日の使い方の自由度が上がっている。
そこで、せっかくだし本の学びを行動に移そうと思い、電気を消してゆっくりしていた。
大変リラックスしたモードになれたのだが、その一因には、電気を消して窓から入ってくる明かりだけで仕事をすることができたこともあるかもしれない。
いつも部屋は一番明るい白色のLEDライトに照らされていて、外が晴れだろうが曇りだろうが、環境には変わりがない。
しかし、ライトを一度消してみると、窓から入ってくる光だけが部屋の中を照らすのであり、もちろん明るさはいつもより少ないし、窓の一方向からだけだから、部屋の中にできる陰が一気に増えるのである。
陰があると、景色が映える。陰がある絵は、見ていて落ち着く。
谷崎潤一郎の陰翳礼讃*2という本があるが、白さ・明るさを強調し陰が排除されたものには、古来日本人が感じてきた風流は存在しないのだと描かれている。
フェルメールの絵には、時代性を考えれば当然のことながら人工の光は描かれない。自然光とそれが作り出す陰が、お互いを強調し、空気を醸しだす。そのことによって、鑑賞者である我々は、静かな臨場感を抱いてフェルメールが300年前に描いた空間に触れることができるのである。
落合陽一の写真は、ホワイトバランスをマイナスに振り切って撮影したようなものが多い。僕は彼の写真が好きなのだけれど、なぜ好きなのかと言われれば、谷崎の言う陰翳が彼の写真に見られるからであり、私の持っている日本人としての精神性がその陰翳に惹かれるからだろう。*3
しばらく仕事ばかりしていからか、LED照明のもとに自分を置き続けてしまっていたようだ。
自然光と陰翳の中に身を沈めるような生活に浸ってもいいのかもしれない。
SHIROBAKO感想(劇場版のネタバレあり)
劇場版SHIROBAKOを見てきたので、感想。
この3-4日ほど、NetflixでSHIROBAKOを見ていて面白かったため、劇場まで足を運んでみた。幸いチャリで行ける距離の映画館で上映していたので、仕事終わりに寄ってみた。
以下、アニメシリーズと劇場版を合わせた感想。
ネタバレも一部あるから、気にする人は見ないでね。
- みゃーもりのお仕事すごい(制作/デスク/プロデューサー)
- いい作品の条件① 自分の体験や感情と融合して、「My特別作品」になる
- いい作品の条件② 葛藤や心情の描写が共感的(それさえクリアされればUIがファンタジーでも美少女アニメでもなんでもよい)
- 心情を言語化するためには語彙を獲得せねばならぬ
- 作品の良さを形容するためには、比較できなければならぬ
- アニメの表現って幅が広い
- 【参考】みゃーもりの髪の毛
- 【参考】タイトルの意味
みゃーもりのお仕事すごい(制作/デスク/プロデューサー)
主人公のみゃーもりはアニメの制作のお仕事から始まって、デスク、プロデューサーと肩書が進んでいくんだけど、これがまた大変な仕事だなと思う。
僕が苦手な仕事の一つに関係者間の調整という仕事があって、つい面倒で人に任せがちだし改めないとなあと普段から思っているわけですが、*1
その大変な調整という仕事を、さらにスケジュールぱつぱつの状況で多数の関係者を巻き込んで行うというのがみゃーもり。
しかも、見ていると結構な敏腕ぶりで、本当にすごい。
女性的な柔らかさでみんなにお願いして協力を得ながら、ときには飴と鞭で監督はじめ制作メンバーを動かしていき、アニメ制作という一大プロジェクトをドライブしていく。とても見習いたい。本当に見習いたい。
いい作品の条件① 自分の体験や感情と融合して、「My特別作品」になる
いい作品の条件はいくつかあると思うんだけど、その一つに、自分の過去の体験や感情と融合してその人にとっての特別作品になるということが挙げられる。
調整能力を身に着けねばならぬと思っている僕にとって、みゃーもりの仕事ぶりはアニメながらすごいと思った。それは、僕の体験や考えと作品が融合して、僕の中で登場人物の株が上がったからなんだよね。
あと、アニメシリーズにはまったのは、自分と同じ社会人1-2年目だったからというのもある。(もしかしてこの層をターゲットにしているのか?)
後述もするけど、アニメシリーズで描かれているのは将来に対する不安だ。この作品は、可愛い女の子のUIをかぶり、目の前のトラブルに見舞われつつも諦めるなんて選択肢は考えずになんとか乗り越えていくというストーリーで進んでいくが、そこに底流しているのは将来に対する不安なのだ。
5人が抱えているのは、昔からもっている夢(なりたい職業)はあるけど、その仕事に就けるのかわからない不安。仕事は始められたけど、できないことばかりで落ち込む日々。どうやったら認められるのかも分からない。
そういうところに強く共感している中で彼女たちがそれでも腐らずにチャレンジし、自分にできることをしっかりやっていき、最終的に小さくも報われる、という展開にカタルシスが生まれ、自分も嬉しくなる。
いい作品の条件② 葛藤や心情の描写が共感的(それさえクリアされればUIがファンタジーでも美少女アニメでもなんでもよい)
もう一つ、いい作品の条件があって、それは、人が抱く葛藤や心情を強く描いていることだと思う。
ファンタジーの皮をまとっていたり、美少女アニメの皮をまとっていたりすることがあったとしても、そこに普遍的な心情が強く描かれているのであれば、その作品は胸を打つものになると思うんだよな。(十二国記はまさにそんな作品だった)
この作品で描かれているのは、主人公たちの将来に対する漠然とした不安だ。この先どうなるんだろう、仕事はもらえるんだろうか、もらえ続けるんだろうか、という不安。
2014年のアニメシリーズで夢を追っていた5人は、5年経った2019年にはそれぞれ一人前の活躍をするようになっている。彼女たちは自分が積み上げてきた歳月と、今得られている評価によって自信と自負を持っている。
しかし一方で、少しでも気を抜くと仕事が回ってこなくなる、少しでも気を抜くと現場が回らなくなるという不安も抱えている。
この点はアニメシリーズとは違う点で、当時彼女たちが抱いていたのは、そもそも仕事にありつけない、何をしたら認められるのかわからない、という不安だった。月日が経ち、着実に成長しているのだと分かる。よかったね君たち、と何目線か自分でもわからないが嬉しい。
心情を言語化するためには語彙を獲得せねばならぬ
常々、言語化能力の高い人間になりたいと思っていた。
僕が関心を持っている言語化の対象は、心情と作品である。
自分の心情を言語化できるとは、その気持ちを表現する語彙を持っているということだ。「ここで主人公たちは負けるんだけど、負けて勝つみたいな。。もっとカタルシスが足りないのかな」というようなセリフが劇中に登場するが、「カタルシスが足りない」という発言は僕からはスムーズに出てこない。
カタルシスという単語自体は意味も分かるが、カタルシスを多寡が測れるものとしてとらえたことがない。故に、この表現は自分の中には生まれてこない。
あと、「俺たたエンド」っていう表現、めちゃくちゃ気に入った。「俺たちの戦いはこれからも続く!」という締めで終わるアニメシリーズの終わり方の表現。こういう、あああれねってなるような現象に名前を付けていくというのは、大変に有意義な精神活動だよね。
作品の良さを形容するためには、比較できなければならぬ
いい感想とは、それを何かと比較してそのものの特徴を抽出できるものだと思う。
なぜなら、原理的な命題として、これはこういう性質のものだ、という言うためには、他のものは違うのだということを言えないといけないからだ。
この作品の中でも、○〇は△△に似ている、〇〇の時とは結構違う、みたいなセリフが登場するが、それが言えるのは比較対象があるからだ。比較することによって特徴は具体的に明示される。
アニメの表現って幅が広い
劇中では、「あ、ここはなんとなくCGクサい感じがする」「お、急に和のテイストになったな」「ここはコメディだからか劇画的だな」「ここはシリアス感を出すために音楽が引いたな」とかいろいろ感じられた。
特に「ここはCGクサい感じがする」や「ここは意図的に和のテイストにしたのか」というのを考え出すと、意図的に作り出せるアニメの表現の幅って広いんだなと感じられた。
アニメづくりの話を見ているから、そういう演出にも気が回ったのだと思う。
【参考】みゃーもりの髪の毛
みゃーもりの髪の毛、なんか茶色の表現が浮いてない?って思っていたけど、こういうことだったのね。
「最終話放送後の打ち上げでお会いでき、皆さんが『よかった~』と言いながら輪になって、達成感にあふれている様子が印象的で、青春だな~と。その時のスタッフさんたちの髪が伸び放題だったのですが、宮森さんもプリン頭なので、そこはリアルなんだなと実感しましたね。でも後日、取材で(制作会社の)ピーエーワークスさんにお伺いする機会があり、その際は髪型もスッキリ整えられていました!」
【参考】タイトルの意味
・SHIROBAKOってどんな意味なんだろと思ったら、
タイトルの『SHIROBAKO』は映像業界用語の「白箱」に由来し、「白箱」は作品が完成した際にスタッフら関係者に配られるVHS(ビデオテープ)を意味する。ビデオテープをパッケージのない白い箱に入れていたことから「白箱」と呼ばれているが、現在はDVDが主流。
ということらしい。
*1:PMOという仕事があって、僕が嫌いだったお仕事だったんですが、最近はPMOこそ関係者の多い組織でプロジェクトをドライブしていくのに必要なスキルだと思っている。調整という仕事は、大変に難しく、重要な仕事だ。ところで、19年かかったというみずほ銀行のシステム刷新プロジェクトは、ベンダ1000社に対するPMOの仕事があったという話を聞いて全俺が震撼した
*2:ずかちゃんは声優の仕事がもらえているし、ライター志望だったりーちゃんは売れっ子になった。車しか書かないCG会社で燻っていたみーちゃんはチームリーダーになっている(後輩との付き合い方について悩んでいる風もあり、親近感が湧いた)し、えまはアニメーターとして成長し作画監督に。みゃーもりは完全に現場を回せるようになっている。
*3:
*4:
行き場を失った青雲の志がふたたび頭をもたげている
大学時代に学生支援を行っている団体から奨学金をもらっており、奨学生のその後ということで現在の活躍を聞かせてくれと寄稿を頼まれた。
ちょうどいい機会だと思って、奨学生になる前(つまり高校時代)から奨学生時代、そして社会人になってからのこの2年を振り返ってみた。
青雲の志の芽生え
昔から、世の中の負を解決したいと思っていた。対岸の火事にしてはいけない問題があると思っていた。対岸まで行って、火を消しに行くべきだと思っていた。
小学6年生のときの担任から、「君たちが平和な国で飢えることもなく暮らしているのは全くの偶然に過ぎない。君たちは何の努力もせずにたまたま日本に生まれ落ちた。一方では戦禍や飢えに苦しむ子供たちがいるのであり、彼らに対して何かできることを模索し続けねばならない」というようなことを言われたのがなんとなく頭に残っていたのだと思う。
中学3年生の頃だろうか。国連職員になりたいという夢を考えた。確か、高校入試の面接でも将来の夢を聞かれ、そんなことを答えたような気がする。
高校生の頃に読んだクーリエジャポンという雑誌で、外資のコンサルティングや金融での実務経験を経て国際協力の仕事に就く人たちの記事を読んだ。日本経済に対する悲観論を目にして、自分に何かできることはないのかと思い始めたのもこの頃だ。
高校の頃に君たちは未来を担う人間だと言い聞かせられていたので笑、そういうことばかりを考えていたような気がする。
青雲の志が行き場を定められず彷徨い始めたころ
一浪して東京の大学に入学した。受験は頑張ったので、大学名でコンプレックスを持つ必要のない、第一志望の大学に行けた。これは本当に嬉しかった。
田舎から東京に来るとき、自分が何か大きな物語の主人公みたいだと思った。ここから自分の物語が始まるのだと思った。
古今東西、優秀な若者は都会に集まるものだ。新しい出会いに胸が高鳴ったし、田舎に生まれ世に出た過去の偉人に自分をなぞらえては、自分のこれからに興奮した。
大学時代は、長いようで短かった。
サークルやバイトや、周囲との人間関係で様々な喜怒哀楽を経験した。せっかく東京に来たのだからとお洒落もしてみた。
旅もした。大学時代のうち3-4か月は外国にいた。非常にいい経験だった。
若い時代の人格陶冶という意味で、良い時間を過ごしたと思う。
ただ、この頃は少し焦燥感を抱いていた。
物語の主人公というからには、何かと出会い、何かを達成し、何か天啓を得るものでは?
もちろん、受け身でいてもそんなものはないとは百も承知だったが、劇的なものはなかった。上述の通り、そんなに珍しくもない大学生活を過ごした。
何かと出会ったか?これはYESだ。
学友は総じて優秀で、彼らとの出会いは間違いなく僕の人生で特筆すべきものだ。大学以外の出会いも、大変充実していた。出会いという点では、僕の人生は一貫して恵まれている。*1
何かを達成したか?NO。
大学生にもなれば一つのトロフィーを巡って皆で競うということはないものだが、SNSを見れば優秀な同期や後輩が何かしらのトロフィーを獲得しており、それと比べては焦っていた。(そもそもそんな勝負の舞台があることも知らなかったし、知ったところで挑戦をしようとも思わなかったのに、だ)
何か天啓は得たか?NOだ。
大学一年の頃からキャリアイベントのようなものには行っていたし、いろいろな方向に振れる興味に沿って勉強もいろいろしてみたが、自分が何をしたいのか、その解像度はあまり上がらないまま時間だけが過ぎていった。
ほかに焦燥感の原因を特定するなら、人生充実度コンテストに無意識に参加してしまっていたことだろう。
この頃は、SNSでみんなの人生充実度コンテストの模様を眺めて、自分も何かしなければと焦っていた。(大学4年の頃に一月ほど旅をして自分を見つめ直し、そのコンテストを眺めることの無為を感じ、降りた)
社会人一年目、完全に志が行き場を失う
とにかく内定をもらった外コンで働き始めた。しかし、一年目なんて右も左もわからず、怒られ続けるもの。今やっている仕事が何につながるのかも、今挑んでいる課題の大きさも、全くわからない。
分からないものには、価値を感じない。
この仕事でいいのかと自問する日々が続いていた。でも、自分がしたい仕事が他にあるわけではない。何かを解決する術を見つけられぬまま、一年目は鬱々として終わった。
行き場を失った青雲の志は、自分の奥深くで眠りについて、そして僕からは見えなくなってしまった。
社会人二年目、自分の仕事の意義を理解し始める
社会人二年目の終わり、自分の仕事の意義が分かるようになってきた。
ビジネスに対する理解が深まったことで、自分の仕事を経営戦略や企業価値と結びつけて理解できるようになったからだ。
「レンガを積む仕事をしているのではない、人を守る城塞を作っているのだ」と思えるようになったからだ。そうであればこそ、日々のちょっとした仕事にも意味を見出し、やりがいをもって仕事に取り組めるようになる。
それから、世の会社があんまりイケてないのだと分かったことも大きい。所詮は一年目、二年目のぺーぺーであるが、そんな僕でも改善できるぐらい、世の会社というのはイケてないものだということが分かった。
あと、何かプロジェクトを推進するということが、こんなにも調整が必要で、こんなにも考えることがあるのだと分かり、何か一つやるのにもこれほど大変なのだと分かった。
であれば、自分の仕事も確かに意味があるようだ。
ここで冒頭の、何か世の中の負を解決したいという気持ちに戻る。
例えば貧困を撲滅するというのは今の自分には遠いテーマだが、もしその解決に乗り出そうと思ったら、今やっているように課題を定義し、いろいろな文献も参照しながらソリューションを決め、関係者と調整をつけ、進捗を確認し、自分にできるイケてないところから解決に乗り出すのだろう。
そういう、解決する術というのが、なんとなく身近になった気がするのだ。そう思えるということは、過去の自分の職業選択が無駄ではなかったということだ。
だからちょっと嬉しい。
行き場を失い僕の中で眠っていた青雲の志は、目を覚ましたような気がする。
まだどこに行くかが分かったわけではないが、この道のりはやがてどこかにたどり着ける可能性があるのだと分かった。
そのことが、無性に嬉しい。
真の名をつけ、世界から現象を切り取り問題として認識する
いま僕が直面している課題のひとつに、どうやってみんなの意識改革をするのか、そしてその改革方法が有効であるかをいかに関係者に伝えるのかというものがある。
人を巻き込みなんらかの問題解決をするためには、まずは問題提起をし問題を解決することのニーズを生むことが必要だ。
問題が提起されない要因
問題が問題として意識されない要因としては
①その現象をそもそも問題として認識できていない
②その現象で発生する困りごとが自分ごと化されていない
のいずれかだろう。
①についてはKutooの例を考えてみるといいかもしれない。
女性たちは社会からの圧力として体に悪い靴を履くことを強いられており、もっと楽な靴を履くという選択肢を制限されているという現象があった。しかし、それはこのKutoo運動が起きる前には、なんとなくみんなが抱える苦痛・不満という程度にとどまり、解決を目指すものではなかった。
ただの現象が問題として提起された途端に、社会のいろいろなところでこの問題の解決に向かってアクションが取られた。
②については、保険の例で考えてみよう。
半年ほど前に外資系の生命保険会社の営業担当者と話した。
この会社の営業の仕方としてなにが上手かというと、No needs no presentation が貫かれていることだ。営業の最初に顧客の人生全体で発生する支出とリスクを明確化することが手法として確立されている。(この保険会社の別の担当者が別のお客さんに話しているところをたまたま聞く機会があったが、ほとんど同じ話法だった)
保険がないことでどのような困りごとが発生するのかを明示し、その困りごとを自分ごと化することで確かに解消するべき問題だと意識させることができる。
問題をどのように認識させるか
以下では、①について深掘りしてみよう。
先程立ち読みしていた本 *1の前書きで、「真の名前を明らかにすることで敵を倒す」という物語の類型があることが紹介されていた。
なぜ真の名前を明らかにすることで敵を倒すことができるのかというと、それは別の本の表現を借りるなら*2的確に表現された言葉というのはみんなを導く旗印になるからである。
ペンは剣よりも強しという言葉があるが、なぜ強いかというとペンで記述しみんなに問題意識が共有されれば、その問題解決のためにエネルギーを集めることができるからだろう。
言語化の効用
やや脱線するが、マックスウェーバーの脱魔術化というのは、世の現象を科学的に解明することで、これまで人類が相対していた現象から神秘のベールを剥ぎ取ることだ。
科学的な言葉で言語化することは、合理的な解決策に導くことにつながるのかもしれない。
また、いまの意識改革の難点は「そんな高度なことができるはずがない」という空気が流れていることだ。この空気の力についても、なんとか打破する必要がある。*3 空気を破るためには、どれだけうまく問題提起ができるのかが重要なのだと思う。
とにかくgiveをしていくことだけが僕の抱えている焦燥から解放してくれるのではないか
仕事をして、土日には仕事のストレスを解消し、仕事で得た金は生存と仕事の生産を維持するために消えていく。
(いまは趣味も充実してきたし友達とよくあって話しているからそこまでではないんだけど)アニメをみて平日の夜の時間はなくなり、やがてまた仕事を迎える。
そうして自分の人生の時間を浪費していくことに対する焦りを感じていることがあった。
この焦燥感から解放してくれるのは、他人にとにかくgiveしまくったという事実
が世界に残ることなのではないか、という話。
- 世界は僕たちに役割を与えてはくれない。役割はないが時間と自由だけが与えられ、それを向ける先がないことに戸惑ってしまう。
- 損得計算をしたところで幸福には繋がらない。与えたのと同じだけ受け取ってしまうと、そこに残るのはただ取引のために自分の人生の時間をつかったという事実だけである。
- 自由と時間を向ける先が定まっていないのであれば、人のために時間をつかったほうがよい。それは自らに充足感を与える。
- すべき仕事
世界は僕たちに役割を与えてはくれない。役割はないが時間と自由だけが与えられ、それを向ける先がないことに戸惑ってしまう。
世界は役割を与えてはくれない。仮に役割のようなものを感じたとしても、その役割はたぶんぼくでなくてもいいはずだし、その役割がじぶんのものなのかと思っても確証を得られる日は来ないだろう。(いや、いつかこれが僕の人生の役割だと自覚することがあるのかもしれないけれども、それまで待っている間に人生を流すのは得策ではない)
だから、世界から与えられる天職を求めている限り、僕たちは満足な仕事をすることはできない。
なにかしらのレースを用意してくれたら、僕たちはそのレースを走り続けることは得意だろう。車輪をカラカラを回すハムスターだと自覚しながら、そしてそのようなレースにぶつくさ言いながら、それでも頑張ってそのレースを走り続けるのは、実はそれほど困難なことではない。(ある人は、それを受験戦争の負の遺産と言っていた)
しかし実際には、広い世界に身一つで自由な自分だけがあり、そしていつまで続くのかはわからないが無限にも伸びそうな時間が用意されている。
この時間は、なにもしないには大変長い。用意された自由と時間とを何につかっていいのかわからないで戸惑っているうちに時間は流れていく。
卑近な例でいえば、土日ですらなにか有意義なことに使いたいと思いながらもそうは使えず、退屈している人はいる。ぼくもそうだ。そして焦る。時間を持て余すという感覚は、なにか大変よくないことだ。
損得計算をしたところで幸福には繋がらない。与えたのと同じだけ受け取ってしまうと、そこに残るのはただ取引のために自分の人生の時間をつかったという事実だけである。
自分が与えた量と同じだけの価値を受け取ることを、取引という。
自分の人生の使い方として取引をするということは有意義なことなのだろうか。
答えは否だ。
だってそれはプラスマイナス0の行為であるが、その取引をしている間に人生の時間は減っている。取引の時間それ自体は、ただの時間の浪費である。
重要なのは、その取引で得たものからどれだけの楽しみを得るかということである。
例えば、スーパーのレジで今夜の晩ご飯につかう野菜と豚肉を買いお金を支払っている時間というのは特に意味はない。重要なのは、それを用いて楽しい料理経験をできるのか、おいしい晩ご飯を食べられるかということにある。
ぼくは仕事では、求められているだけの仕事をまずはやればいいんでしょ、と思っていたけれども、それは求められただけの労働を供与し賃金を得るという取引だけを行なっているのであり、それ自体にはあまり意味がない。
それでは、生存を確保すること趣味を楽しむことだけのために仕事をし自分の人生の残り時間を減らしているだけであり、取引の結果を見れば時間がなくなっただけ、という状況だ。
等価交換の取引を行うことは、そこにかけている時間も計算に入れると、トータルとしてマイナスの結論を招くのであり、バランスはしないのである。
取引のためではない時間の使い方とはなんだろう。
自由と時間を向ける先が定まっていないのであれば、人のために時間をつかったほうがよい。それは自らに充足感を与える。
相手に与えたものと同じだけを受け取るからよくないのだ。相手から受け取った以上に相手に与えなくてはいけない。
そうすれば、ぼくは世界に対して、ただの取引以上の価値を提供したことになる。
取引以上の価値を世界に提供したのだといえば、ぼくの人生の時間の使い方としてはバランスする。言い訳が立つ。
受け取る以上にgiveをするということは、じぶんの人生の時間を有意義に活用できていることを示す。
鋼錬の最終話でもアルが言っていたはずだ。「10もらって10返してもそのままなので、もらった10に1を足して返す。これが僕たちがみつけた新しい法則です」
僕たちは周囲の人間と関係性を築き生きている。
あなたがその人になにかをあげることでその人が喜んでくれ、その喜んでくれたという事実によってあなた自身が嬉しくなったのだとしたら、それで生きる意味としては十分なのではないか。
先日のブログで、生きる意味に悩むブラックウォーグレイモンに対して、心があるなら友達になれる、友達になれるのであればそれで十分ではないかと返すアグモンの話をした。*1自分の役割を求めるのではなく、他人との関係性によってじぶんの人生に充実を見出そうという考え方である。
十二国記の陽子の考え方を借りるのであれば、プラスマイナスがマイナスになったとしても、それは僕が自分の時間を他人のために使わない理由にはならない。
すべき仕事
自分が自分のために何かをして、それで他の人も喜んでくれたらそれはとてもいい状況だ。そのようなことがあるならそれを何度でも反復するべきだ。(たぶん僕の場合、インプットを仕入れて編集し他の人ににとって意味のある形で提供することや、データを分析してなにかしらの示唆を出すことがそれにあたる)
自分としてはたいして美味しくないけど、他人に喜ばれることがあるとしたら、それはするべきだ。
与えすぎで困ることは、ぼくがインプットを仕入れる時間が少なくなり他人に長期的に有用な示唆を与えられなくなることだ。それだけに気をつけていたらいいのだと思う。