Alexa、僕はあの日夢見た僕にはまだなれていないんだ。

自分がどのように見えているのかに気を使うということ

今日は友人と秋葉原をぶらぶらと散策していた。

秋葉原を歩いていると、寝癖がついたお兄さんたちがとても多く、同類に出会えたような安心感を覚えてしまう。(秋葉原という街にはとても魅力を感じているのだけれど、その話はまた今度)

この秋葉原から万世橋を渡り神田のほうにいくと、高架下を利用した大変お洒落なカフェがある。このカフェにいくと、秋葉原を楽しそうに歩いているオタクたちとはうってかわり髪の毛がさらさらで雰囲気がきらきらとした大変綺麗なお姉さんたちが楽しそうにお話しをしている。

ほんの1、2ブロックだというのに歩く人の雰囲気がこんなにもかわるものだなあ、と感心していた。

 

彼女達をみて、オタク達とは全然ちがうよなあと思ったが、いや待てよ俺もどちらかというとオタク側だ。人にどうみられるのかをあまり気にせずにいる。

彼女達ぐらいに綺麗でいるためには、自分の中にこのぐらいの綺麗な自分でいなくてはという基準があるに違いない。もちろん僕にもあるのだが、彼女達のそれに比べれば僕の基準なんてとんでもなく低いものだろう。

この自分のあるべき姿の基準に関していえば、髪や顔をどれだけ綺麗にしているのかではない。発する言葉、立ち座る姿、人に向ける表情、仕事のときの姿勢、成果物の水準、、、いくらでもある。

 

もちろん人の目ばかり気にしているのもいかがなものかという気もするが、人様から見て恥ずかしくない自分であろうというのはいい心がけだろうし、見習っていきたいものだ。

最近は体も鍛えていないものだからだらしない体付きをしているし、話し方にもあまり気を遣っておらずついつい緊張して早口で話してしまったりまとまりのない話し方をしてしまったり、ということも。

理想の自分とはこういうものだ、というのが特に自分の中にあるわけではないのだけれど、それを仮にでも見つけて自分をそこに合わせていくというのを久しぶりにしてみてもよいだろう。*1

*1:いま見ている昭和元禄落語心中の8代目や、組長さん、十二国記のギョウソウや延王といった魅力的な人物になりたいものだ。僕はどちらかというと豪放磊落という感じの性格ではないが、図体がでかいのでしっかりしている安定した感じを出せると良いのだろう。

デジモンラスエボ感想(ネタバレあり)

一昨日公開されたデジモンLast Evolution絆をみてきた。

このためだけに、02も全話見直しておいてよかった。

以下、つらつらと感想をかいていますが、ネタバレを堂々と書いているので気になる人は読まないでね。

 

本作のあらすじ

本作のテーマは別離である。

大学生になり少しずつ将来の道が決まりつつある太一たちが、「選ばれた子供たちが大人になってしまったらパートナーデジモンとのパートナー関係が解消される」という新たな事実に直面し、葛藤しつつそれを受容し乗り越えていくというストーリーである。

パートナーの喪失を経験するぐらいなら子供のままの楽しい記憶に浸っていたいという敵に対して、太一と大和は喪失を受容したうえで現実と向き合い生きていくことを選択した。そうして2人はパートナーに最後の進化(これは新たな形態への進化でアグモン-勇気の絆、ガブモン-友情の絆というものらしい)をさせて、敵を打倒する。

 

ラストシーン、敵を打倒した2人には、自分たちが選択した通りに最後の別れが待っている。*1

この最後の別れのシーンはとても良かった。

ハーモニカと夕暮れ、静寂の演出は、太一と大和の喪失感を観客に共有するのに十分なものだった。

そして同時に、これまでの冒険を見てきた観客は、2人が別れを受容しすこし時間はかかるかもしれないけれどもこの別れを克服するだろうということを感じとることができる。

世界は彼らをいつまでも子供ではいさせてくれないのだし、いや世界がそれを許したのだとしても、彼らは少しずつ大人になっていっているのだ。

 

デジモンの役割

エンドロールではすこし見逃してしまったのだけど、02世代の選ばれし子供たちはパートナーデジモンと一緒にいる姿が描かれているが、無印世代の描写ではデジモンではなく周囲の人間と、自分の夢に向かって活動している姿が描かれている。

デジモンとは、子供たちを大人へと成長させる触媒だったのかもしれない。

子供が大人に成長するまでと、大人がさらに成熟していくまでにはまた別の経験が必要だ。

選ばれし子供たちはそれぞれの現実で戦っていくのであり、そこではたとえば明確な敵とたたかうことではなく、地道に勉強を重ねる、職業経験を重ねる、組織の中での調整能力を獲得していく、リスクをとっていく、家計を支えていく、といったことが求められていく。

子供たちの成長を促す触媒としてのデジモンは役目を終えるのである。

彼らが夢を叶えるまでの道程

02最終話では無印世代、02世代が自分の夢をパートナーデジモンとともに叶える姿が描かれているのだが、本作では話の端々に太一たちのキャリアが02の最終話に向かっていることが示唆されている。*2

そのことを考えると、今回パートナーを喪失してから夢を叶えるまでの間でパートナーデジモンとの再会があるのだろうし、映像化されてほしいなと思う。*3*4*5

 

 

*1:ここでやっぱり一緒にいられそうです、なんてことにならなくてよかった。自分たちが勝ち得たのではないハッピーエンドなんて安直な物語では、誰の心にも響かない。子供たち向けに放映されていた無印や02では、苦難を乗り越えた先には楽しい未来が用意されていた(02の最終話)ことと比較すると、今回のストーリーはやはり大人に向けたものであるといえよう。

*2:作中では進路に悩んでいた太一はおそらく早稲田の政経のようなところにいるし、太一の卒論のテーマはデジモンと人類の共生であった。02最終話にある通り最後にはデジタルワールドと現実世界を結ぶ外交官に着地することは十分に納得できる。

*3:4月から無印が新解釈されたアニメシリーズが始まるらしいが、そこでは描かれないだろう。あまり期待はせずに首を長くして再会編を待っていたい。

*4:太一たちにとって成長の触媒としての役割をもっていたデジモンであるが、02最終話のころには太一たちの子供世代にとっては成長の触媒であり、太一たちにとっては良き隣人としての位置づけになっているような節がある。

*5:太一たち世代がデジタルワールドによる現実世界への被害を食い止めていたわけだが、後進は育っているのだろうかとふと疑問に思った。

世界に影響を与えていくということ

上司に、「君はポテンシャルはあるのだがそれが十分に表出していない。それでは評価しきれない」というようなことを言われた。(他にも技術的なことも言われている)

帰りの地下鉄でつり革につかまりながら、そういえば俺って昔からそうだったかもな。。なんて考えていた。

 

ここ数年、何か人に影響を及ぼすことに対して慎重になっているきらいがある。

一番慎重になったのは、当時付き合っていた遠距離の彼女が僕のために東京で就職することの背中を押したときだと思う。それから、僕のことを慕ってくれていた後輩が大学受験で上京することについて冷静に考えたほうがいいと伝えたときもそうだ。(なんだかモテエピソードだなこれ)

他にも、学生寮の寮長をしていたときには、よくある人間関係の問題に対して(当事者でありながら)傍観を決め込んでしまい、ずるずると問題を先延ばしにしてしまっていた。

 

世界に対して、というと大げさなので、他人に対して、という表現を使うが、他人に対して何か影響を与えることにとてもためらいがある。

それは、自分が相手の行動の変化によって発生する結果の責任を負えないからということもあるし、その影響を与えることによって自分が失敗することに恐怖を感じているからというのもあるだろう。

ほかにも、働きかけをした際にその働きかけが成功することなく、それは違うと反駁されてしまうことが怖いからかもしれない。

(確かに僕は、人にNoといわれることが怖いし嫌だし、Noと言うことにも慣れていない。できればNoのない世界で生きていたい。参謀ポジションが好きなのは、一番自分が傷つかなさそうだからだ。Noを避けたいという安直な願望については、また別の機会に書いてみよう)

 

でも、僕は世間にある重大な問題の解決に貢献したいと思っているのだし、そのためには人を巻き込み、人の行動を変え、社会を動かしていかなければならない。

(世界を動かすというと、動かす対象の解像度が途端に低くなってしまうから、できれば今度からは具体的な対象を指定できるとよいな)

 

どうしたらそんな自分になっていけるのだろう。

案1として、何かロールモデルを探したほうがいいのだろうか、なんて考えていた。けど、僕が憧れがちなのはいわゆるダークヒーローで、裏から世界を動かすほうがカッコよく見えてしまうので、ロールモデル探しも難航しそうだ。

そこで案2なのだが、失敗する芽を少しでも摘んで、もうこの状態なら失敗の可能性はないだろう、という状況を作り出していくのがいいかもしれない。であれば、臆病な自分にもできるし、向いている。

そうして少しずつ他人に影響を与えることを覚えていこう。

斜めの関係って大事だよねという話

一月前に、職場に後輩がやってきた。

研修が終わり現場配属さればかりの後輩で、2年目の先輩が一年目の彼を指導することになった。

2年目の僕は後輩が先輩に指導を受けているのを眺めているだけであったのだが、この後輩があまりキレキレな感じではなく、しかもコミュニケーションを周りとうまく取れないことによって失敗しそうな気配がしていることにお節介な老婆心がうずいてしまった。

 

1.観測事実

後輩が、上司に指導されて落ち込んでいるところを目にした。

後日、後輩がウンウンと悩みながら仕事をしているのでランチどきに何で悩んでいるのか聞いたところ、手元のインプットでは情報が不足しすぎて判断のしようがないような状態に陥っていた。

 

2.状況の解釈

後輩は次のような負のスパイラルに陥っていた。

①キャッチアップが追いつかず期限内に求められているアウトプットを出せない。

②アウトプットの遅れとその理由と言い訳が混同した報告をするため、上司が複数の指摘を行う。

③萎縮して上司をコミュニケーションを取れなくなる。

④わからないことが聞けないため、少ないインプットでアウトプットを出さざるを得ずさらに期待値を下回る。

①に戻る

これではどん詰まりである。

 

3.決断したこと

この後輩、いまのままだと確実に詰む。

僕は、彼に対して自分のできるヘルプをしてみようと思った。

 

先輩が優しく指導するからなんとなくその場は乗り切れるかもしれない。

しかし、彼がこの負のスパイラルに陥っていることは僕しか確認できないし、仮に先輩が気づいたとしても先輩のさらなる指導は彼を萎縮させるだけだ。

直接的な指導ー被指導関係にない自分がフォローすることで少しは後輩の成長と仕事の成功に貢献できるのではないかと考えた。

 

4.アクション

後輩がこの負のスパイラルを抜け出すために僕ができるのは、上述したスパイラルの③でフォローすることだ。

先輩に対する報告相談の壁打ち相手になった。

また、途中で発生した問題であったが、後輩の中では先輩の指導が一貫性のないように見え不満があったようで、指導を受容するメンタル状態が整っていなかった。(まあそういうのよくあるよね)

それに対しては、客観的にみて妥当性が一定あることの確認と、そもそもそのような問題が発生しないような仕事の進め方とコミュニケーションの取り方について説明した。

 

5.効果

後輩に対する効果:

コミュニケーションをとりに行く頻度が改善されたようだ。

(これって聞いていいのかな、と思うような場面でぐるぐると逡巡していたが、僕に対して「これって聞いていいと思いますか」という質問をして壁打ちを始め、悩まずとにかく聞くべしということが自覚できたようだった)

 

自分自身に対する効果:

親切心から始めてみたことだったが、思わぬ効果が得られた。

①斜めの関係によるフォローがとても重要だということ(しかも暗黙のフォローがよさそう)

指導ー被指導関係にある二者の間では、あるアクションがマイナスに働く可能性がありえる。全てのオプションを取れるわけではないのだ。また、心理的に直接は言いにくいことも容易に出てくる。そういう時に、この斜めの関係があれば実行できなかったオプションを実行することができる。

 

②親切にするという行動には以下のような効能がある。

・完全に自分の意思で始まる行動である。その点でタスクを切って渡されることとは全く性質が異なる。

・いつ辞めてもいいことなので、ノーリスクである。

・困っている人に手を差し伸べるということは、他人に対する影響力の行使という意味ではインパクトの大きい部類の行動である。自分の行動の意義を感じやすい。

・行動量を増やすことで思考材料が増える。

・人が想定していない親切とは、あきらかに期待値を超える行動である。我々のような期待値を超えることが常に求められている人種にとって、それは大変よいトレーニング機会である、

 

思わぬ果実が得られたので、これを機に少しでもGiveすることをふやしていきたいよなと思う。これもまた、大河の一滴である。

 

追記;

今回の章立ては、OODAループに則って記載した。

事実理解→解釈→判断→実行→実行効果確認→解釈→…

なかなか有用なフレームワークだよな。

 

 

 

 

 

『白銀の墟 玄の月』読後感(ネタバレ注意)

十二国記で描かれる心理描写がとても胸に沁みる、という話。

 

 阿選麾下の友尚は、阿選が驍宗暗殺に際して友尚ではなくごろつきの烏衡を用いたことに反感を覚えていた。なぜ烏衡なのだ、と。

「友尚は阿選にそんな道に踏み込んでほしくはなかった。ゆえに加担することには強い抵抗を感じただろう。—しかしながら、だからこそ、自分を使ってほしかった、という思いはある。矛盾するようだが、たぶん友尚は阿選に説得されたかったのだろう。(中略)―お前にしか頼めぬ、と言われたかったのかもしれない。」18章より。

 

これだよこれ。これが人間というものだ。この多面性が、大河をなす一滴の雫の本性だ。

尊崇する主に対して、罪人に堕してほしくない思う。それは主に対する忠誠ゆえだ。

自分も加担することには抵抗がある。それは同義心ゆえだ。

しかし、主が罪を犯すのであれば、それにはきっとやむを得ない理由があるのだと理解するし、それがどんな理由であれ結局自分は主を信じ従う。それは、自分と彼がともに過ごした時間の重みゆえだ。

そして、それほど重大な罪の共犯者には自分を選んでほしかった。それは、自分の彼に対する信頼が一方方向であってほしくはないという気持ちゆえだ。

 

最近Twitterや、お手軽な漫画や小説やらにどっぷりつかっているのか、人間の単一の側面にしか目の向かないコンテンツに浸っていたようだ。この人間の多面性を言語化し味わえていない。

単一の感情では物語に深みが出ない。そうした単調な物語ばかりを摂取していると、僕の世界のとらえ方も深みのないものになってしまう。

複雑な感情をとらえ描く作品というのは、大変心地よい。

意識してそうした作品の摂取をしていきたい。

(十二国記シリーズ読後感)人は自らを救うしかないし、自分が果たせる役割を果たすしかない。

小野不由美の最新刊『白銀の墟 玄の月*1』を読み終えた。

昨年10月、11月になにやら書店でたいへんに盛り上がっていることを知り、そんなに面白いなら読んでみるか、その前にアニメから入るか、と思い立ったのが11月の半ば(11/16)。アニメはあまりにおもしろく、十日もたたず11/25にはすべて見終えていた。

それからすぐ、11/29にはアニメ化されていないシリーズ分をすべて購入し、約一か月をかけてすべて読み終え、今日にいたる。

とにかく、この小説群は胸に沁みる。この良さをどう言語化しようと思案していたところ、各巻の解説にて僕の気持ちを代弁するものがいくつかあったので、それを紹介したい。*2

近年、ネット小説を中心に、異世界召喚や異世界転生した主人公が、特別な力で無双の活躍をするファンタジーが流行っている。面白い作品もあるので一概に否定しないが、やはりその根底にあるのは、安直な願望充足である。(中略)作者はそのような願望充足とは無縁であった。緻密に構築された中華風の異世界も、命あるものの感情が満ち、善意と悪意が交錯する。その中で人にできるのは、精一杯生きることだけなのである。(『黄昏の岸 暁の天』細谷正充の解説) 

そう、この小説の人物たちの願望はまさに安直な充実を得ることがない。彼ら彼女らは、自分の甘えや無知に対しては必ず世界から清算を求められる。何も働きかけることなく事態は好転しない。

これは、同じく『黄昏の岸 暁の天』*3における陽子と李斎の会話にも表れている。

「だが、天が実在しないなら、天が人を救うことなどあるはずがない。天に人を救うことができるのであれば、必ず過ちを犯す」

「それは…どういう…」

「人は自らを救うしかない、ということなんだ―李斎」

そして、泰麒と李斎の会話にも。

「けれども李斎―僕はもう子供ではないです。いいえ、能力で言うなら、あの頃のほうがずっといろいろなことができた。かえって無力になったのだと言えるんでしょう。けれども僕はもう、自分が無力だと嘆いて、無力であることに安住できるほど幼くはない」

この物語に、わかりやすいヒーローは登場しない。無辜の民であっても、簡単には救われない。救われるのは、自ら立ち上がった者たちだけだ。

ただし、その物語が、読むものに勇気を与える。

「目を逸らさないで私を見て!家族を殺されて全部失くした。これが現実なの!」

(中略)

支僑は言う。「私たちは無力です。これが仕事だからやっているけど、それ以前に、これくらいしかできることがないんです。けれど―」支僑は顔を上げた。蓮花の顔をひたと見る。

「けれど、暦は必要です。こんな時代だから必要なんです。それだけは疑いがない。誰かが暦を作らないといけない。だからそれしかできない私たちがやるんです」

(『丕緒の鳥』「風信」*4

この物語の人物たちは、自分たちの与えられた状況で懸命に生き、それだけではなく、荒れる世にあって少しでもその状況を改善しようと自分たちにできることを一つ一つやっていく。

人間、できることからしか始められないけれども、もっと自分にはデカい仕事があるはずだ、あっちの仕事のほうがかっこいい、という気持ちに陥りがちだ(ぼくがそうだ)。そして、あろうことか、自分にあの仕事をさせてくれない周りが悪い、なんてことを言いだしてしまう。

でも、まずは自分の役目を果たすことから始める。できることから、すべきことから、始めていく。この物語の人々は、どこまでも人間臭い。どこまでも人間臭いのに、安きに流れず、自らに打ち克つ。その姿を見て、心が震える。僕にもできるのではないか。

僕の目指すべき、人の生きる様とは、このような姿なのではないかと、思う。

このシリーズが読者にもたらす興奮は、一過性のものではない。”決して自分にできないこと”ではなく、必ず”自分にだってできること”があると思い知る―自分を発見する喜びと表裏一体だから、読む者の心をいつまでも揺さぶり続けるのだ。 (『丕緒の鳥辻真先の解説) 

 

*1:

白銀の墟 玄の月 第一巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第一巻 十二国記 (新潮文庫)

  • 作者:小野 不由美
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/10/12
  • メディア: 文庫
 

*2:他にも、これらの解説が優れていたので掲載。本当にこの通りである。

www.shinchosha.co.jp

www.nikkei.com

*3:

黄昏の岸 暁の天 十二国記 8 (新潮文庫)

黄昏の岸 暁の天 十二国記 8 (新潮文庫)

  • 作者:小野 不由美
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2014/03/28
  • メディア: 文庫
 

*4:

丕緒の鳥 (ひしょのとり)  十二国記 5 (新潮文庫)

丕緒の鳥 (ひしょのとり) 十二国記 5 (新潮文庫)

  • 作者:小野 不由美
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2013/06/26
  • メディア: 文庫
 

2020年は自信をつけていきたい

 

皆さま、あけましておめでとうございます。

2019年末に開始した当ブログ、2020年も引き続きよろしくお願いいたします。

2020年最初のエントリーは、どのようなスタンスで過ごしていこうかという話です。

 

 

 

自己評価を上げていきたい

2019年を振り返る中で、2点気づいたことがありました。

①社会人2年目として1年間頑張っており、結構できることが広がっていた

②2019年中の各段面ではあまり成長実感はなく、むしろ自己評価は低めだった。

 

①について、1年目だった自分は満足に周囲とコミュニケーションもとれず、社会人としての振る舞い方もわからず、右往左往陰陰鬱々としていた、というのが実際のところ。

それが2年目になって、基本的なビジネスマンとしての振る舞いができるようになったと感じているし、若手に求められる基本的なタスクはだいぶ処理できるようになってきたように思う。データ分析ができる若手、という方向でスキル伸長・キャリア向上を図りたい。

 

②について、このエントリで細かく見ていきたい。

 

現象:自己評価が低いと感じた場面

現職の評価制度は大雑把に言えば、年間パフォーマンスをA、B、C、D、Eの5段階で自己申告し、それを上司が承認することで評価 が決定する仕組み。これまでは基本的にCで申告しており、上司もそのまま承認をした。

しかし、自分とたいして能力の変わらない同期がBで自己申告しB評価を得ているのを見てしまった。

AやBで申告できる人間の何がすごいって、もちろんそれだけのパフォーマンスを出せることもすごいのだけど、パフォーマンスが追い付かなくても過大評価することができることがすごい。

 

推察:自己評価が低い理由

自分が申告した評価が低い理由として、以下の2点が挙げられると考えた。

①実際にパフォーマンスが低い

②インポスター特性がある

このどちらかというわけではなく、どちらもあると思う。

(①だけであっても自己評価を高く設定することはあり得るし、②だけなら自己申告後に上司が評価を上方修正するだろうから)

 

①については2020年も頑張りましょうという話なんだが、②の場合にはその心理的特性があることを把握しておく必要があると考えた。だって、無意識に何かしらのバイアスや特性を持っている場合には、それを自覚し取り除けるようにしないと世界を間違った目で見てしまう可能性があるからね。

 

調査:インポスター特性について

藤江2009『インポスター現象研究の概観』を参照した。

 

定義:インポスター現象とは

客観的に高い評価を得ている分野について、評価が高いのは運が良かったためで実際には自分には能力がないのだと感じ、同時に能力がないことを他者に見破られてしまうのではないかという不安を感じる経験*1

 

留意事項:インポスター現象と近い概念

インポスター現象は、成功に伴うネガティヴな結果を懸念する傾向である成功恐怖*2や、失敗を恐れる傾向である失敗恐怖と重なる部分が大きい
→つまり、インポスター現象を疑う場合には成功恐怖や失敗恐怖ではないかを疑えばよい、と言うことか。

 

インポスター特性の研究におけるトレンド

インポスター現象は自己呈示方略なのではないか、という考えに基づいた研究が見られるようになった。インポスター特性の高い人たちは、匿名の場合に比べて回答内容が実験者に公開される状況では、これから行う課題への期待や課題の重要度、妥当性を低く評価する傾向にあることが示された。(Leavy et al, 2000)

 

インポスター特性の発現に関する著者の仮説

成功恐怖・失敗恐怖・プライド毀損への恐怖から、人は自己卑下的な自己開示を行う(セルフハンディキャッピング)。ただし、自己呈示には、自己概念を呈示した方向に変容させる効果があることがしられている。(キャリーオーバー効果;Schelenlerm 1994)つまり、自己卑下をしているうちに自分を実力のない人間であると評価するようになり、インポスター現象を発現する。

 

教訓

セルフハンデキャッピングを極力減らしていかないと、自己評価が下がってしまい挑戦をしなくなりそう。大言壮語を放言していかないと、自分の能力も育てられないだろう。

ただ、周囲の人間に対して、特に自分のパフォーマンスを知っている人間に対して、大言壮語を放つのはなかなか難しいものがあるように思う。そのため、こういった場で放言していきたいと思う。

複数のパーソナリティを運用することで、単一パーソナリティで生じるデメリットを解消することも良いかもしれない。

※自分ができることを見極める、自分ができないかもしれないが挑戦する価値のあることを定義する、というのは大変に重要なことだと思う。

 

 

*1:インポスター現象は男性より女性に多く見られるという説があったが、現在ではこの説は否定されている。

*2:Horner(1968)が提出した概念で、能力が高く達成動機も高い女性は、成功すると社会的に拒絶されるため、成功を恐れる、という女性特有の態度。ただし、のちの研究では、対人的配慮・成功や競争に対する価値観といった、男性にも共有される多様な背景が成功恐怖の背景にあることが明かされた。堀野1991『成功恐怖の再検討』では、成功恐怖は女性に特有のものというよりも、男女に共通の競争に対する恐怖であることを指摘している。