自分がどのように見えているのかに気を使うということ
今日は友人と秋葉原をぶらぶらと散策していた。
秋葉原を歩いていると、寝癖がついたお兄さんたちがとても多く、同類に出会えたような安心感を覚えてしまう。(秋葉原という街にはとても魅力を感じているのだけれど、その話はまた今度)
この秋葉原から万世橋を渡り神田のほうにいくと、高架下を利用した大変お洒落なカフェがある。このカフェにいくと、秋葉原を楽しそうに歩いているオタクたちとはうってかわり髪の毛がさらさらで雰囲気がきらきらとした大変綺麗なお姉さんたちが楽しそうにお話しをしている。
ほんの1、2ブロックだというのに歩く人の雰囲気がこんなにもかわるものだなあ、と感心していた。
彼女達をみて、オタク達とは全然ちがうよなあと思ったが、いや待てよ俺もどちらかというとオタク側だ。人にどうみられるのかをあまり気にせずにいる。
彼女達ぐらいに綺麗でいるためには、自分の中にこのぐらいの綺麗な自分でいなくてはという基準があるに違いない。もちろん僕にもあるのだが、彼女達のそれに比べれば僕の基準なんてとんでもなく低いものだろう。
この自分のあるべき姿の基準に関していえば、髪や顔をどれだけ綺麗にしているのかではない。発する言葉、立ち座る姿、人に向ける表情、仕事のときの姿勢、成果物の水準、、、いくらでもある。
もちろん人の目ばかり気にしているのもいかがなものかという気もするが、人様から見て恥ずかしくない自分であろうというのはいい心がけだろうし、見習っていきたいものだ。
最近は体も鍛えていないものだからだらしない体付きをしているし、話し方にもあまり気を遣っておらずついつい緊張して早口で話してしまったりまとまりのない話し方をしてしまったり、ということも。
理想の自分とはこういうものだ、というのが特に自分の中にあるわけではないのだけれど、それを仮にでも見つけて自分をそこに合わせていくというのを久しぶりにしてみてもよいだろう。*1