Alexa、僕はあの日夢見た僕にはまだなれていないんだ。

人生に規範を持つための10冊

2021年10月2日現在の仮説。

人生には規範があったほうが良い。
人はこう振る舞うべきだ、こういう行動パターンが己の幸福につながる、という規範を自己の中に確立することが若者のうちに努めるべきことだと思う。
(他者から求められる規範は息苦しい。反感を持ってしまう。だから自身が選び取った規範が必要だ)

自己に規範を与えるための本として5冊ピックアップする。
僕の仮説では、このテーマでも10冊ほど人生の土台に据えるべき本があるのだけど、現在では5冊だけ。
残りの5冊には、これからの人生で出会う予定である。


マルクス=アウレリウス=アントニヌス『自省録』

平日のうち2、3日はこの本を読むところから始めている。まさに至言の数々。読むたびに、先生!!!って叫んでる。
どんな人の人生も短く、そしてすぐに忘却される。生きている間に他者に比べて勝ったところで得られる名誉は儚い。
我々にできるのは、他人に気を取られずに自分の生を全うすること。善であること。


アラン『幸福論』

半世紀以上年上の郷土の大先輩が紹介していた本。この大先輩と話せた時間は決してそこまで多いわけではなかったが、
70歳になったらあんな年寄りになりたいと思っている。
「僕が倒れると思ったら僕は倒れる。まずは自分を信頼する。希望を持つ。楽観は意志に属し、悲観は本能に属する」


フランクル『死と愛』

唯一かつ一回しかない他ならぬ私自身の人生。人生に意味を問いかけるのではない。
人生のほうが私に問いかけている。お前はこの人生で何を成すのか、と。


小野不由美十二国記

中華ファンタジーの世界観の中で、人の本分とは何かを問う骨太の小説。
天に頼らず、独立不羈の精神をもち己の力で強く生きていく様に強く心を打たれる。


サムエルウルマン『青春とは心の若さである』

神保町の本屋で出会った本。この本は表題の詩が有名だけれども、それ以上に亡き奥さんへの愛を綴った詩が心を打つ名作。*1

*1:上述の『死と愛』にある「愛される者よりも愛する者のほうが幸せである」という記述や、 『生きがいについて』で引用されている「だれか一人のために希望を持ったり恐れを抱いたりすること。それだけが自分をほんとうに生きているという完全な感じをにんげんに与えるのだ」といった記述からも思ったが、愛は人生の土台として忘れることなく据えなくてはならない。

幸福と読書についての仮説

ショーペンハウアーの『読書について』によれば、読書するよりも思考するべきで、もし読書するなら有限な人生の中で本当に読んだ方がいい本は本当にわずか、古典に留めるべき、ということである。(確かそうだった)

 

これをベースにした現在の仮説は以下。

よりよく生きるためには、いくつかの限られた本を読み自分の血肉とし、それらをもとに自分の思想と世界の味わい方を覚える。
そのあとはひたすら現実世界に触れ、時に戦い、時に味わう。

 

また、関連する仮説として、

人生を味わう(ショーペンハウアーの言葉を借りるなら世界という書物を直接読破する)ためには、カテゴリごとに10冊の本があれば良い。

この10冊でそのカテゴリを説明できる、またはその10冊で自分の思想を話せるようになる、というような本をもつことができれば良い。

 

とも考えている。

今は雑多に本を読んでいるが、今後本を読んだら、この本はそのジャンルの10冊に入るのか、入るとすればそれはなぜで、入らないとすればそれはなぜか、ということを言語化することを考えると良いかもしれない。

結局、読まないといけない本はそこまで多くないのだ。

月に平均4~5万円を書籍購入に割いている。漫画を除くと4万円ぴったりぐらいだろうか。

一冊あたり1000円だとして、月に40冊。年間500冊程度を購入している計算になる。

Amazonのセール一回につき10-20冊ぐらい買っているからなあ)

じゃあそれだけの本をしっかり読んでいるのかというと、そうとは全く言えない。

一度も読んでいない本もたくさんあるし、一度しか読まない本というのは決して身についたとは言えない。二度以上読んだ本しか読んだとは言えない、とは誰の言葉だったか。

 

そこで、他の積読家と同じく、考えた。

  • どうすれば大量の本を読んで、しかも身に着けることができるのか

 そして、他の読書家と同じく、考えた。

  • 分からなければ、本に尋ねればよい。
    (ただし、読んでも身に着けられないリスクがある) 

選んだのはこの二冊だ。

 

『読書について』は、

本を読むのではなく考える>>古典を読む>>(越えられない壁)>粗製乱造の現代本を読む

という旨のことを言っている。読書について、というタイトルでありながら、本を読むひまがあるなら考えることに時間を費やそう、ということを言っているのだから、なんともひねりが効いている。

考えることはたくさんあるのに、本を読んでいてたら考える時間がなくなってしまう。せめて時間の試練に耐えた古典であれば読む価値は保証されているが、そうでない現代の書籍はその価値もない、有限な時間しか与えられていない我々は時間をそこに割くべきではない、とのことだ。

 

『本を読む本』では、4レベルの読書法を紹介しながら、精読の必要がある本はごく少数で、ほとんどの本はつまみ読む程度で十分、ということを言っている。

どちらの本も、大量の本が出回っているけど本当に読むもの・考えることに集中しよう、ということを言っている。

 

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どの本だったか忘れたが、新規性バイアス(新しいものほど正しいという錯覚)というものが紹介されていたように思う。新しく出る本にはキャッチ―なコピーとインフルエンサーの紹介文が付されており、さらに本の著者はその本を評価する声をリツイートしまくるから、あたかもみんながいい本だと言っているように聞こえる。新しい本はどんどん魅力的に見えてくる。

でも、自分の思考体系が整理されており、また地の思考力が一定程度あるなら(一定ってどのぐらいだよ)、新たに読む必要はないのでは。

また、世に大量の本が出回っているが、結局言っていることは何も変わらなくて、各人が「僕の考えた最強の○○」を展開しているか、「○○を僕なりにかみ砕いて説明してみました(同じことは既にいろいろな人が言っているけど)」というパターンがほとんど。

やはり、あるトピックについて理解を深めたい、いっぱしのことが言えるようになりたいと思ったときに、「僕が考えた最強の○○」「○○な僕がまとめてみました」という本を読んでも仕方ない、というかキリがない。歴史の評価に耐えた本を1-2冊読んで骨とし肉を作っておけば、有象無象の本を前にしても「あの本の劣化コピーね」「わざわざ時間を割かなくてもそのぐらい分かるわ♪」と言えるはず。

 思考が停止しているほど、向こうからのアプローチに負けしまうんだよな。

 

結局、読まないといけない本はそこまで多くないのだ。

 

 

 

仕事なんて生きがいにするな

ここ数か月、本当に仕事が大変だった。

過労死ラインを簡単に超えてとにかく仕事だけをしていた。

仕事をしているか、仕事のための勉強をしているか、仕事からの疲労を取り除くために休息をするか、そのいずれかの生活をしているかだった。

寝不足とストレスから心身は摩耗し、クライアントと会話するときには手が震えていた。

 

手が震えているのを見て、自分が考えている以上に自分の心身が削られていることに気付いた。

プロジェクトが終わってからは有休をとって体を休めている。休みながら、身の振り方を考えたり*1、自分の幸せってなんなんだろうな、なんて考えていた。

 

そんな中で読んだのがこの本。

 

 kindleセールで半額になっていたからちょうどいいなと思ってぽちった本。

気休め程度になればいいかなと思ってぱらぱらとめくってみようかと思ったら、思いのほか良書だった。というかこれは今の自分にドンピシャで刺さった本だった。

 

  1. 中年の危機が若年化している
    物質的に充足した現代において若者が食っていくことをモチベーションの源泉にすることは難しい。食っていくことでなく、仕事自体が目的となるような仕事をしたいと思っているが、そのような仕事に就けていない若者は悩む
  2. 人生の意義でなく人生の意味を自分で作る
    人が生きる意味を感じられるのは、決して価値あることをなすことによってではなく*2、心/身体が様々なことを味わい喜ぶことによって実現する
  3. 断片化された労働にあふれたこの世の中じゃ、既存の選択肢の中を探し回ってもキリがないし、天職には出会えない。一人の人間にとっての理想の姿は、一つの労働の枠に当てはまるようなものではない。 
  4. 人生の意味を見出すこととは、日常を遊ぶこと・味わうことである
    非日常・特別な日だけを楽しむ生活では、残りの日常生活がつまらない。勤勉で禁欲的であることを美徳とするのではなく、人生も熱中して遊び味わうべきだ。ただしそれは成熟した遊びである。人の頭脳を駆使した遊びである。それが芸術であり革新である。人生を味わうのは容易ではない。
  5. 日常を遊ぶためには、自分の行動を即興に委ねることと面倒臭いことを積極的にやってみること。

 

私たちは、もはや「何者かになる」必要などはなく、ただひたすら何かと戯れてもよいのではないか。それこそが、「遊び」の神髄だと思います。

 

このブログのタイトルも、自分が何者かになりたいという欲望に基づくものだった。(この欲望はマズローの欲求五段階説の一番上のものだと思うから、別にそれ自体は自然なことだ)

自分が何者にもなれていない、今後もこのままだとなれそうにない、ここで何とかしなければいけない、と思うことがたびたびあった。

だがそもそも何者かになるというのは呪いであるとも言えるし、最終的に何者かになるにしても、それはレッドオーシャンをサバイブすることによって達成するべきことではない。(ブルーオーシャンを淡々と生きた結果としてなんらかの第一人者になるということは十分できることだ)

人生は仕事だけで構成されているわけではない。仕事も、趣味も、友人たちとの暮らしも、パートナーとの生活も、すべてトータルで見た幸せを追求するべきなのだ。(もちろん、長期で勝っていくために今集中的にスキルに投資するという手もあるけど)

プロフェッショナルキャリアって結構レッドオーシャンだよな。

*1:コンサルティングプロジェクトを通してクライアントを応援していくのがこの仕事だが、クライアントに対して興味はわかないしむしろ嫌いだし、うまくいかないまま沈んでしまえと思っている。完全にこの仕事に向いていない

*2:現代人は常に何かの役に立つべきとされる有意義病に冒されている、とは鋭い指摘

うるっせえバーカ!!!

深夜に考え事をするとよくない。夜はだいたいネガティブになるものだし、前向きな気持ちになるものではないのだから。
それでも、一度心に渦巻いたモヤモヤはなかなか晴れることなく、心の中に滞留している。

今日は、夕方に上司から心にくる指摘を受け、それで気分が沈んでしまった。

 

事象1

自分は2つの領域の進行を任されていて、この2ヶ月でどちらも完了させないといけなかった。
ただ、一方が大幅遅延した(これは95%私のせいではない)ため、その遅延解消に忙しく、もう片方の領域の進行に支障をきたしてしまっていた。自覚はあったがリソースが足りずに有効な手が打てず、また、周りから見ても後者の領域は優先順位が低かった。だから前者の遅延解消にリソースを割いたのだった。私のリソースが割けなかったことに対しては、上司が工数を割くことでカバーしてもらった。

 

解釈1

まず、この時点で思うことはたくさんある。というか、言い訳する自分とそれに反駁する自分とがいる。

・職場のメンバーにはこのスケジュールでいけるだろうという楽観的なムードが漂っていた。敗戦真際の日本軍のようだ。
→この無根拠の楽観ムードを破壊する必要があった。頑張る、というソリューションが発生していた時点で、客観的に見れば完全に筋悪だ。

・俺は別にサボっていたわけではない。遅延が発生した領域を挽回したのは、俺の功績だ。
→せっかく任されている領域なんだから、ちゃんとコントロールしろよ。前者の遅延を言い訳にするんじゃない。バッファを設けないスケジュールだったのが悪かったんだろ。


・そもそも元々の遅延が発生したのは俺がどうこうできるレベルではなかった。
→本当か?本当だとしても、そこで後者の対応に遅延を出したのはお前の実力不足、判断ミス、意思決定の失敗に他ならないだろうが。もっと早く上司にレポーティングし、対応を協議することは可能だったはずだ。
・レポーティングはしていたし、実際にカバーはしてもらった。
→カバーだけではなくて、優先順位の付け方を考慮するだとかの工夫はできたはずだ。

 

事象2

上記は、まあいいんだ。俺の力不足だったというそれだけなのだから。挽回するように善後策をこれから検討する。
問題は、上記を踏まえて今日上司から言われた言葉だった。

「もう一つの上の役職であれば、ここで頑張って1人で挽回していた」

 

これがもう、刺さりに刺さった。
ウチの会社では呼び名が違うが、一般社員の一つ上、主査と呼ばれるようなポジションがその役職なのだが、この主査になるのはちょうど三年が経ったタイミングであることが多い。
でも、100人いれば1人は一年で昇進し、10人は一年半で昇進し、15人は2年で昇進する。さらにもう20人が2年半で昇進する。つまり、一般よりも早いものが半分いるのだ。三年目で上がるのは残りの半分、というのがまあ実際のところだ。(実は早く昇進するのは部署によるところも大きいのだけど、まあそれはそれとして仲のいい同期の半分が次の一月までに昇進する)

 

俺は今、この残りの半分だ。

今期のパフォーマンス自体には問題がなく、主査の仕事を振っても問題なくこなすことができる。

ただ、今回はまだまぐれあたりの可能性があって再現性があるとは言い難く、昇進させるには早い、という半ば内定が出ている。

今期の昇進はないのだ。

 

早い同期は、すでに昇進している。優秀な奴ほど、早く昇進して、そして転職する。取り残された気分だ。取り残されて、惨めな気分だ。仲のいい同期ほど早く昇進したものだから、より置いてきぼりな気分になっている。なんだか、同期に顔を合わせづらい気持ちすらある。

 

解釈2

先の上司の言葉は、まあ実際には奮い立たせるつもりで発したのかもしれないし、俺への当て付けだったのかもしれない。純粋な感想だったのかもしれない。
ただ、これは、「ここにいるのははませ君じゃなくて、〇〇君であれば、うまくいっていた」ということに聞こえた。

 

俺は、俺の同期に能力が劣っているとは全く思っていない。

肩を並べてやっていけると思っている。入社当時からずっとそう思っていたし、今もそう思っている。

 

ところが、昇進タイミングというものを見てみれば、彼らが1年半や2年でなったものに、3年かけてなっていくのだ。

単純計算に意味があるわけではないが、1.5倍、2倍の時間がかかっている。成長曲線の傾きが鈍いのだ。

その事実に、なんだか胸が辛くなる気がした。

 

別に、評価が不公平だとは思っていない。

自分の実力が適切に評価された結果、まだ自分は主査には早いという結論だったのだと考えている。

実力が正しく評価された結果、俺は彼らよりも倍の時間がかかってしまっているのだ。

 

 

解釈2への反駁

この解釈2のために、俺は今日は夕方からずっと気分が落ち込んでいる。

そうしてもう、深夜1時半だ。やることは山ほどあるが、そろそろ寝なければ。

寝る前に、簡単に上記のマイナス思考に反駁しておこう。

 

・他人と自分を比べるものではない。昨日の自分と比べて評価するべきだ。

・過去は過去で、起きたものは仕方がない。問題は、じゃあどうするか、だろう*1。今週中にリカバリする案を考えよう

・俺が実力が不足しているのは仕方がない。じゃあ、足りない実力を伸ばすにはどうしたらいいか、当面この実力でやっていくにはどうしたらいいかを考えよう

 

仕方ないじゃないか。起きたことは起きたことだ。じゃあどうする、を問うこと以上にできることはない。

 

ついでに、最近よく聴いている告Radioの名言をなげて終ろう。

うるっせえバーカ!!!!

お前のせいでこんなに夜中まで悩んじまったじゃねえかバーカ!!!!

こっちだって実力不足なのは承知、今期昇進はないとわかってて日々頑張ってんだバーカ!!!!!!!!!!!!!

バーカバーカバーカ!!!!!!!

*1:アオアシの最新刊でも言っていた

読書録:知的複眼思考(サイコロの展開図の作り方)

世の中には、何度も読み返し実践に移し血肉化しなければならない本がある。

知的複眼思考は、その一つであると感じる。

 

 

最近の自分の課題として刺さるコミュニケーションができていないことが挙げられる。

そのために必要なのは、

①クリスタライズ

②アナロジー*1

③サイレンス*2

であるというのが今の私の結論だ。本エントリでは①についてのみ語り、②③は別のエントリでいずれ紹介したい。

 

クリスタライズ(思考の結晶化)

100を考えて1に凝縮するというのがクリスタライズだ。

そのためには100を考える必要があるのだが、ではどうやって100を考えるのか、という問題に突き当たる。

そこで重要になるのが、この知的複眼思考で取り上げられている視点である。この本では物事を一面的にとらえることがないようにするためにはどうするべきか、どのような問を立てるべきかを詳細に、事例も交えつつ紹介している。

最近はインプット過多でプロセスとアウトプットの精度が向上していないような気がするから、自己研鑽をする際にはこの本を座右にして考えを深めたい。

 

基本

①関係論的に捉える

関係論的に捉えるとは、事象を分割し、分割された事象ごとにみる、分割された事象間の関係をみるということである。

具体的な問いの立て方としては、

①A「この事象は常にAということはなく、この前提条件のもとではAだがあの前提条件のもとになるのはBになるのではないか(場合分けが不十分)

①B「この問題提起は一面的な捉え方しかできていない。輸送需要の逼迫という問題において、供給だけではなく需要の統制も考えるべきだ(片手落ち)

①C「この事象の時系列変化はどうなっているのか(時間軸の不在)

 

②パラドクスの発見

意図せざる行為の結果(Aを企図してXをしたのにも拘わらず、Bになった)

②A「このアクションには、副作用がある(副作用と副産物)

②B「このアクションは、抜け道を考慮していない(悪意の見逃し)

②C「このアクションは、個人レイヤーと社会レイヤーでの最適アクションを混合している(合成の誤謬、分割の誤謬、協調ゲーム;全体と個の混合)」

②D「このことが問題視されることで、我々は目をそらされている。このことが問題視されることで誰かが得をしている(誘導)

 

応用

①批判的に読書をする

著者の狙いが分かれば批判ポイントも分かる

「お前さんの本当の目的は何だい(著者の著述目的)

「お前はどこの学派/クラスタだい?(著者の無意識な前提)

「題目と中身が違うじゃねえか(タイトル詐欺)

「無理のある解釈をしてるんじゃないよ(テレビ的切り取り)

 

②質問をする、問いを立てる

何か質問はありませんか、と話者はいうが、「質問とは話の内容が分からないときに行うものだ」という前提に立てば、話者が優れているほど質問が出ないのは普通である。その時には、次の問を発してみよう。

「○○とはどういうことか(実態を問う)

「○○なのはなぜか(理由を問う)*3

 

以上、知的複眼思考のメモをもとに、自分が今後の自己研鑽をするときにどのような視点で整理するべきかを並べてみた。この記事の視点は、一年で血肉化したい。

*1:最近、Newspicksの動画で明石ガクトさんがパンチラインの効いた言葉を並べることが重要だと言っていた。戦略コンサルのブログを読んだときにも似たようなことを言っていた

*2:帰ってきたヒトラーという映画で、ヒトラーが初めてカメラの前に立ってよいスピーチのためには沈黙を利用し観衆の興味を引き付けることが重要だと語っていた。また、戦略コンサルのブログでも相手に考える間を与える/相手に言葉を染みつける間を与えるという意味で重要だと言っているhttps://takashi-kogure.hatenablog.com/entry/2020/03/30/222835

*3:なぜ5回などは基本動作であるが、これが日常的に実践されているのかについては怪しい場面が多々ある。

庄兵衛になれるだけでも大したものである

前のエントリで、森鴎外高瀬舟とは単純化された世界観に対する批判の物語であることを話した。

不治の病に冒され自殺を試みたが死に損なって苦しんでいる弟を、これ以上苦しめまいと手に掛けた兄。欲のない性格のこの兄(喜助)をどう裁くのが良いことなのか判断ができず、結局「庄兵衛はお奉行様の判断を自分の判断にしようと思った」のであるが、庄兵衛は途中で結論を出すことを放棄してしまったものの、その思考態度は認めるべきだなと思う。

今、コロナ禍でいろんな情報が出回り、それに対していろんな人がいろんなお気持ちを表明している。しかし、それらの情報はまだ正解が見えない中で一定の目的のもと試行錯誤され出てきている施策・情報であり、それらに対して十分に吟味されないまま尚早な批判がなされているように見える。(Yahooニュースのコメント欄なんか、本当に見るものではない)*1

庄兵衛は当人である喜助から情報を集め、それについては尚早な決断を下すことなく、悩んだのだ。その点は、一市民としては、極めてまともな感覚だと言えるだろう。

*1:この前ニュースピックスの動画を見ていたら、石破元防衛大臣は、今回のコロナ禍に対する政府の対応は一定の目的のもとなされてはいるが、その意思決定プロセスが透明ではないことについて批判をしていた。透明性のある科学的な判断を、政府とは切り離して実施する組織を立ち上げることが重要であるようだ