Alexa、僕はあの日夢見た僕にはまだなれていないんだ。

SHIROBAKO感想(劇場版のネタバレあり)

劇場版SHIROBAKOを見てきたので、感想。

この3-4日ほど、NetflixSHIROBAKOを見ていて面白かったため、劇場まで足を運んでみた。幸いチャリで行ける距離の映画館で上映していたので、仕事終わりに寄ってみた。

以下、アニメシリーズと劇場版を合わせた感想。

ネタバレも一部あるから、気にする人は見ないでね。

 

 

みゃーもりのお仕事すごい(制作/デスク/プロデューサー)

主人公のみゃーもりはアニメの制作のお仕事から始まって、デスク、プロデューサーと肩書が進んでいくんだけど、これがまた大変な仕事だなと思う。

僕が苦手な仕事の一つに関係者間の調整という仕事があって、つい面倒で人に任せがちだし改めないとなあと普段から思っているわけですが、*1

その大変な調整という仕事を、さらにスケジュールぱつぱつの状況で多数の関係者を巻き込んで行うというのがみゃーもり。

しかも、見ていると結構な敏腕ぶりで、本当にすごい。

女性的な柔らかさでみんなにお願いして協力を得ながら、ときには飴と鞭で監督はじめ制作メンバーを動かしていき、アニメ制作という一大プロジェクトをドライブしていく。とても見習いたい。本当に見習いたい。

 

いい作品の条件① 自分の体験や感情と融合して、「My特別作品」になる

いい作品の条件はいくつかあると思うんだけど、その一つに、自分の過去の体験や感情と融合してその人にとっての特別作品になるということが挙げられる。

調整能力を身に着けねばならぬと思っている僕にとって、みゃーもりの仕事ぶりはアニメながらすごいと思った。それは、僕の体験や考えと作品が融合して、僕の中で登場人物の株が上がったからなんだよね。

あと、アニメシリーズにはまったのは、自分と同じ社会人1-2年目だったからというのもある。(もしかしてこの層をターゲットにしているのか?)

後述もするけど、アニメシリーズで描かれているのは将来に対する不安だ。この作品は、可愛い女の子のUIをかぶり、目の前のトラブルに見舞われつつも諦めるなんて選択肢は考えずになんとか乗り越えていくというストーリーで進んでいくが、そこに底流しているのは将来に対する不安なのだ。

5人が抱えているのは、昔からもっている夢(なりたい職業)はあるけど、その仕事に就けるのかわからない不安。仕事は始められたけど、できないことばかりで落ち込む日々。どうやったら認められるのかも分からない。

そういうところに強く共感している中で彼女たちがそれでも腐らずにチャレンジし、自分にできることをしっかりやっていき、最終的に小さくも報われる、という展開にカタルシスが生まれ、自分も嬉しくなる。

 

いい作品の条件② 葛藤や心情の描写が共感的(それさえクリアされればUIがファンタジーでも美少女アニメでもなんでもよい)

もう一つ、いい作品の条件があって、それは、人が抱く葛藤や心情を強く描いていることだと思う。

ファンタジーの皮をまとっていたり、美少女アニメの皮をまとっていたりすることがあったとしても、そこに普遍的な心情が強く描かれているのであれば、その作品は胸を打つものになると思うんだよな。(十二国記はまさにそんな作品だった)

この作品で描かれているのは、主人公たちの将来に対する漠然とした不安だ。この先どうなるんだろう、仕事はもらえるんだろうか、もらえ続けるんだろうか、という不安。

2014年のアニメシリーズで夢を追っていた5人は、5年経った2019年にはそれぞれ一人前の活躍をするようになっている。彼女たちは自分が積み上げてきた歳月と、今得られている評価によって自信と自負を持っている。

しかし一方で、少しでも気を抜くと仕事が回ってこなくなる、少しでも気を抜くと現場が回らなくなるという不安も抱えている。

この点はアニメシリーズとは違う点で、当時彼女たちが抱いていたのは、そもそも仕事にありつけない、何をしたら認められるのかわからない、という不安だった。月日が経ち、着実に成長しているのだと分かる。よかったね君たち、と何目線か自分でもわからないが嬉しい。

*2

 

心情を言語化するためには語彙を獲得せねばならぬ

常々、言語化能力の高い人間になりたいと思っていた。

僕が関心を持っている言語化の対象は、心情と作品である。

自分の心情を言語化できるとは、その気持ちを表現する語彙を持っているということだ。「ここで主人公たちは負けるんだけど、負けて勝つみたいな。。もっとカタルシスが足りないのかな」というようなセリフが劇中に登場するが、「カタルシスが足りない」という発言は僕からはスムーズに出てこない。

カタルシスという単語自体は意味も分かるが、カタルシスを多寡が測れるものとしてとらえたことがない。故に、この表現は自分の中には生まれてこない。

 

あと、「俺たたエンド」っていう表現、めちゃくちゃ気に入った。「俺たちの戦いはこれからも続く!」という締めで終わるアニメシリーズの終わり方の表現。こういう、あああれねってなるような現象に名前を付けていくというのは、大変に有意義な精神活動だよね。

 

作品の良さを形容するためには、比較できなければならぬ

いい感想とは、それを何かと比較してそのものの特徴を抽出できるものだと思う。

なぜなら、原理的な命題として、これはこういう性質のものだ、という言うためには、他のものは違うのだということを言えないといけないからだ。

この作品の中でも、○〇は△△に似ている、〇〇の時とは結構違う、みたいなセリフが登場するが、それが言えるのは比較対象があるからだ。比較することによって特徴は具体的に明示される。

 

アニメの表現って幅が広い

劇中では、「あ、ここはなんとなくCGクサい感じがする」「お、急に和のテイストになったな」「ここはコメディだからか劇画的だな」「ここはシリアス感を出すために音楽が引いたな」とかいろいろ感じられた。

特に「ここはCGクサい感じがする」や「ここは意図的に和のテイストにしたのか」というのを考え出すと、意図的に作り出せるアニメの表現の幅って広いんだなと感じられた。

アニメづくりの話を見ているから、そういう演出にも気が回ったのだと思う。

 

【参考】みゃーもりの髪の毛

みゃーもりの髪の毛、なんか茶色の表現が浮いてない?って思っていたけど、こういうことだったのね。

「最終話放送後の打ち上げでお会いでき、皆さんが『よかった~』と言いながら輪になって、達成感にあふれている様子が印象的で、青春だな~と。その時のスタッフさんたちの髪が伸び放題だったのですが、宮森さんもプリン頭なので、そこはリアルなんだなと実感しましたね。でも後日、取材で(制作会社の)ピーエーワークスさんにお伺いする機会があり、その際は髪型もスッキリ整えられていました!」

*3

 

【参考】タイトルの意味

SHIROBAKOってどんな意味なんだろと思ったら、

タイトルの『SHIROBAKO』は映像業界用語の「白箱」に由来し、「白箱」は作品が完成した際にスタッフら関係者に配られるVHS(ビデオテープ)を意味する。ビデオテープをパッケージのない白い箱に入れていたことから「白箱」と呼ばれているが、現在はDVDが主流。 

ということらしい。

*4

 

*1:PMOという仕事があって、僕が嫌いだったお仕事だったんですが、最近はPMOこそ関係者の多い組織でプロジェクトをドライブしていくのに必要なスキルだと思っている。調整という仕事は、大変に難しく、重要な仕事だ。ところで、19年かかったというみずほ銀行のシステム刷新プロジェクトは、ベンダ1000社に対するPMOの仕事があったという話を聞いて全俺が震撼した

*2:ずかちゃんは声優の仕事がもらえているし、ライター志望だったりーちゃんは売れっ子になった。車しか書かないCG会社で燻っていたみーちゃんはチームリーダーになっている(後輩との付き合い方について悩んでいる風もあり、親近感が湧いた)し、えまはアニメーターとして成長し作画監督に。みゃーもりは完全に現場を回せるようになっている。

*3:

 

*4:

行き場を失った青雲の志がふたたび頭をもたげている

大学時代に学生支援を行っている団体から奨学金をもらっており、奨学生のその後ということで現在の活躍を聞かせてくれと寄稿を頼まれた。

ちょうどいい機会だと思って、奨学生になる前(つまり高校時代)から奨学生時代、そして社会人になってからのこの2年を振り返ってみた。

 

青雲の志の芽生え

昔から、世の中の負を解決したいと思っていた。対岸の火事にしてはいけない問題があると思っていた。対岸まで行って、火を消しに行くべきだと思っていた。

小学6年生のときの担任から、「君たちが平和な国で飢えることもなく暮らしているのは全くの偶然に過ぎない。君たちは何の努力もせずにたまたま日本に生まれ落ちた。一方では戦禍や飢えに苦しむ子供たちがいるのであり、彼らに対して何かできることを模索し続けねばならない」というようなことを言われたのがなんとなく頭に残っていたのだと思う。

中学3年生の頃だろうか。国連職員になりたいという夢を考えた。確か、高校入試の面接でも将来の夢を聞かれ、そんなことを答えたような気がする。

高校生の頃に読んだクーリエジャポンという雑誌で、外資コンサルティングや金融での実務経験を経て国際協力の仕事に就く人たちの記事を読んだ。日本経済に対する悲観論を目にして、自分に何かできることはないのかと思い始めたのもこの頃だ。

高校の頃に君たちは未来を担う人間だと言い聞かせられていたので笑、そういうことばかりを考えていたような気がする。

 

青雲の志が行き場を定められず彷徨い始めたころ

一浪して東京の大学に入学した。受験は頑張ったので、大学名でコンプレックスを持つ必要のない、第一志望の大学に行けた。これは本当に嬉しかった。

田舎から東京に来るとき、自分が何か大きな物語の主人公みたいだと思った。ここから自分の物語が始まるのだと思った。

古今東西、優秀な若者は都会に集まるものだ。新しい出会いに胸が高鳴ったし、田舎に生まれ世に出た過去の偉人に自分をなぞらえては、自分のこれからに興奮した。

 

大学時代は、長いようで短かった。

サークルやバイトや、周囲との人間関係で様々な喜怒哀楽を経験した。せっかく東京に来たのだからとお洒落もしてみた。

旅もした。大学時代のうち3-4か月は外国にいた。非常にいい経験だった。

若い時代の人格陶冶という意味で、良い時間を過ごしたと思う。

 

ただ、この頃は少し焦燥感を抱いていた。

物語の主人公というからには、何かと出会い、何かを達成し、何か天啓を得るものでは?

もちろん、受け身でいてもそんなものはないとは百も承知だったが、劇的なものはなかった。上述の通り、そんなに珍しくもない大学生活を過ごした。

 

何かと出会ったか?これはYESだ。

学友は総じて優秀で、彼らとの出会いは間違いなく僕の人生で特筆すべきものだ。大学以外の出会いも、大変充実していた。出会いという点では、僕の人生は一貫して恵まれている。*1

 

何かを達成したか?NO。

大学生にもなれば一つのトロフィーを巡って皆で競うということはないものだが、SNSを見れば優秀な同期や後輩が何かしらのトロフィーを獲得しており、それと比べては焦っていた。(そもそもそんな勝負の舞台があることも知らなかったし、知ったところで挑戦をしようとも思わなかったのに、だ)

 

何か天啓は得たか?NOだ。

大学一年の頃からキャリアイベントのようなものには行っていたし、いろいろな方向に振れる興味に沿って勉強もいろいろしてみたが、自分が何をしたいのか、その解像度はあまり上がらないまま時間だけが過ぎていった。

 

ほかに焦燥感の原因を特定するなら、人生充実度コンテストに無意識に参加してしまっていたことだろう。

この頃は、SNSでみんなの人生充実度コンテストの模様を眺めて、自分も何かしなければと焦っていた。(大学4年の頃に一月ほど旅をして自分を見つめ直し、そのコンテストを眺めることの無為を感じ、降りた)

 

社会人一年目、完全に志が行き場を失う

とにかく内定をもらった外コンで働き始めた。しかし、一年目なんて右も左もわからず、怒られ続けるもの。今やっている仕事が何につながるのかも、今挑んでいる課題の大きさも、全くわからない。

分からないものには、価値を感じない。

この仕事でいいのかと自問する日々が続いていた。でも、自分がしたい仕事が他にあるわけではない。何かを解決する術を見つけられぬまま、一年目は鬱々として終わった。

行き場を失った青雲の志は、自分の奥深くで眠りについて、そして僕からは見えなくなってしまった。

 

社会人二年目、自分の仕事の意義を理解し始める

社会人二年目の終わり、自分の仕事の意義が分かるようになってきた。

ビジネスに対する理解が深まったことで、自分の仕事を経営戦略や企業価値と結びつけて理解できるようになったからだ。

「レンガを積む仕事をしているのではない、人を守る城塞を作っているのだ」と思えるようになったからだ。そうであればこそ、日々のちょっとした仕事にも意味を見出し、やりがいをもって仕事に取り組めるようになる。

それから、世の会社があんまりイケてないのだと分かったことも大きい。所詮は一年目、二年目のぺーぺーであるが、そんな僕でも改善できるぐらい、世の会社というのはイケてないものだということが分かった。

あと、何かプロジェクトを推進するということが、こんなにも調整が必要で、こんなにも考えることがあるのだと分かり、何か一つやるのにもこれほど大変なのだと分かった。

であれば、自分の仕事も確かに意味があるようだ。

 

ここで冒頭の、何か世の中の負を解決したいという気持ちに戻る。

例えば貧困を撲滅するというのは今の自分には遠いテーマだが、もしその解決に乗り出そうと思ったら、今やっているように課題を定義し、いろいろな文献も参照しながらソリューションを決め、関係者と調整をつけ、進捗を確認し、自分にできるイケてないところから解決に乗り出すのだろう。

そういう、解決する術というのが、なんとなく身近になった気がするのだ。そう思えるということは、過去の自分の職業選択が無駄ではなかったということだ。

だからちょっと嬉しい。

 

行き場を失い僕の中で眠っていた青雲の志は、目を覚ましたような気がする。

まだどこに行くかが分かったわけではないが、この道のりはやがてどこかにたどり着ける可能性があるのだと分かった。

そのことが、無性に嬉しい。

 

*1:吐くまで飲んで先輩達と語り合ったこと。徹夜明けのカップ麺がおいしいこと。徹夜で勉強してコンビニまでエナドリを買いに行くときの澄んだ空気と朝焼けがきれいなこと。窓から差す西日で廊下が輝いていることに寮の友達と歓声をあげたこと。ごはんのおかずが少なくて不平を言ったこと。徹夜で麻雀をして翌日の授業を諦めたこと。彼女と電話をしたまま眠りについたこと。彼女からのプレゼントで思わず涙が流れたこと。競ってトロフィーを得ることとは別の幸せの形を見つけたこと。今夜の晩ごはんのおかずをスーパーで買った帰り道、夕暮れに照らされた彼女の横顔を眺めること。

幸せとはそういうことだ

真の名をつけ、世界から現象を切り取り問題として認識する

いま僕が直面している課題のひとつに、どうやってみんなの意識改革をするのか、そしてその改革方法が有効であるかをいかに関係者に伝えるのかというものがある。

人を巻き込みなんらかの問題解決をするためには、まずは問題提起をし問題を解決することのニーズを生むことが必要だ。

 

問題が提起されない要因

問題が問題として意識されない要因としては

①その現象をそもそも問題として認識できていない

②その現象で発生する困りごとが自分ごと化されていない

のいずれかだろう。

 

①についてはKutooの例を考えてみるといいかもしれない。

女性たちは社会からの圧力として体に悪い靴を履くことを強いられており、もっと楽な靴を履くという選択肢を制限されているという現象があった。しかし、それはこのKutoo運動が起きる前には、なんとなくみんなが抱える苦痛・不満という程度にとどまり、解決を目指すものではなかった。

ただの現象が問題として提起された途端に、社会のいろいろなところでこの問題の解決に向かってアクションが取られた。

 

②については、保険の例で考えてみよう。

半年ほど前に外資系の生命保険会社の営業担当者と話した。

この会社の営業の仕方としてなにが上手かというと、No needs no presentation が貫かれていることだ。営業の最初に顧客の人生全体で発生する支出とリスクを明確化することが手法として確立されている。(この保険会社の別の担当者が別のお客さんに話しているところをたまたま聞く機会があったが、ほとんど同じ話法だった)

保険がないことでどのような困りごとが発生するのかを明示し、その困りごとを自分ごと化することで確かに解消するべき問題だと意識させることができる。

 

問題をどのように認識させるか

以下では、①について深掘りしてみよう。

先程立ち読みしていた本 *1の前書きで、「真の名前を明らかにすることで敵を倒す」という物語の類型があることが紹介されていた。

なぜ真の名前を明らかにすることで敵を倒すことができるのかというと、それは別の本の表現を借りるなら*2的確に表現された言葉というのはみんなを導く旗印になるからである。

 ペンは剣よりも強しという言葉があるが、なぜ強いかというとペンで記述しみんなに問題意識が共有されれば、その問題解決のためにエネルギーを集めることができるからだろう。

 

言語化の効用

やや脱線するが、マックスウェーバーの脱魔術化というのは、世の現象を科学的に解明することで、これまで人類が相対していた現象から神秘のベールを剥ぎ取ることだ。

 

科学的な言葉で言語化することは、合理的な解決策に導くことにつながるのかもしれない。

 

また、いまの意識改革の難点は「そんな高度なことができるはずがない」という空気が流れていることだ。この空気の力についても、なんとか打破する必要がある。*3 空気を破るためには、どれだけうまく問題提起ができるのかが重要なのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

*1:

この本は世にある問題を提起することに主眼が置かれたエッセイ集だ。

Kindle版が出版されていないようで、購入は諦めた。ちゃんと読んだわけではないので間違いがあるかも。なにかしら誤解があったら申し訳ありません。購入等は自己の責任内でよろしくお願いします

*2: 

「言葉にできる」は武器になる。

「言葉にできる」は武器になる。

  • 作者:梅田 悟司
  • 発売日: 2016/08/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

*3:ここらへんも参考として読み直しておこう。空気の正体に迫った本ではあった記憶があるが、空気をどのように打破していくのかということについては語られていないような気がするが。。

 

「空気」の研究 (文春文庫)

「空気」の研究 (文春文庫)

 

とにかくgiveをしていくことだけが僕の抱えている焦燥から解放してくれるのではないか

仕事をして、土日には仕事のストレスを解消し、仕事で得た金は生存と仕事の生産を維持するために消えていく。

(いまは趣味も充実してきたし友達とよくあって話しているからそこまでではないんだけど)アニメをみて平日の夜の時間はなくなり、やがてまた仕事を迎える。

そうして自分の人生の時間を浪費していくことに対する焦りを感じていることがあった。 

この焦燥感から解放してくれるのは、他人にとにかくgiveしまくったという事実

が世界に残ることなのではないか、という話。

 

 

世界は僕たちに役割を与えてはくれない。役割はないが時間と自由だけが与えられ、それを向ける先がないことに戸惑ってしまう。

世界は役割を与えてはくれない。仮に役割のようなものを感じたとしても、その役割はたぶんぼくでなくてもいいはずだし、その役割がじぶんのものなのかと思っても確証を得られる日は来ないだろう。(いや、いつかこれが僕の人生の役割だと自覚することがあるのかもしれないけれども、それまで待っている間に人生を流すのは得策ではない)

だから、世界から与えられる天職を求めている限り、僕たちは満足な仕事をすることはできない。

なにかしらのレースを用意してくれたら、僕たちはそのレースを走り続けることは得意だろう。車輪をカラカラを回すハムスターだと自覚しながら、そしてそのようなレースにぶつくさ言いながら、それでも頑張ってそのレースを走り続けるのは、実はそれほど困難なことではない。(ある人は、それを受験戦争の負の遺産と言っていた)

しかし実際には、広い世界に身一つで自由な自分だけがあり、そしていつまで続くのかはわからないが無限にも伸びそうな時間が用意されている。

この時間は、なにもしないには大変長い。用意された自由と時間とを何につかっていいのかわからないで戸惑っているうちに時間は流れていく。

卑近な例でいえば、土日ですらなにか有意義なことに使いたいと思いながらもそうは使えず、退屈している人はいる。ぼくもそうだ。そして焦る。時間を持て余すという感覚は、なにか大変よくないことだ。

損得計算をしたところで幸福には繋がらない。与えたのと同じだけ受け取ってしまうと、そこに残るのはただ取引のために自分の人生の時間をつかったという事実だけである。

自分が与えた量と同じだけの価値を受け取ることを、取引という。

自分の人生の使い方として取引をするということは有意義なことなのだろうか。

答えは否だ。

だってそれはプラスマイナス0の行為であるが、その取引をしている間に人生の時間は減っている。取引の時間それ自体は、ただの時間の浪費である。

重要なのは、その取引で得たものからどれだけの楽しみを得るかということである。

例えば、スーパーのレジで今夜の晩ご飯につかう野菜と豚肉を買いお金を支払っている時間というのは特に意味はない。重要なのは、それを用いて楽しい料理経験をできるのか、おいしい晩ご飯を食べられるかということにある。

 

ぼくは仕事では、求められているだけの仕事をまずはやればいいんでしょ、と思っていたけれども、それは求められただけの労働を供与し賃金を得るという取引だけを行なっているのであり、それ自体にはあまり意味がない。

それでは、生存を確保すること趣味を楽しむことだけのために仕事をし自分の人生の残り時間を減らしているだけであり、取引の結果を見れば時間がなくなっただけ、という状況だ。

等価交換の取引を行うことは、そこにかけている時間も計算に入れると、トータルとしてマイナスの結論を招くのであり、バランスはしないのである。

取引のためではない時間の使い方とはなんだろう。

 

自由と時間を向ける先が定まっていないのであれば、人のために時間をつかったほうがよい。それは自らに充足感を与える。

相手に与えたものと同じだけを受け取るからよくないのだ。相手から受け取った以上に相手に与えなくてはいけない。

そうすれば、ぼくは世界に対して、ただの取引以上の価値を提供したことになる。

取引以上の価値を世界に提供したのだといえば、ぼくの人生の時間の使い方としてはバランスする。言い訳が立つ。

受け取る以上にgiveをするということは、じぶんの人生の時間を有意義に活用できていることを示す。

鋼錬の最終話でもアルが言っていたはずだ。「10もらって10返してもそのままなので、もらった10に1を足して返す。これが僕たちがみつけた新しい法則です」

 

僕たちは周囲の人間と関係性を築き生きている。

あなたがその人になにかをあげることでその人が喜んでくれ、その喜んでくれたという事実によってあなた自身が嬉しくなったのだとしたら、それで生きる意味としては十分なのではないか。

先日のブログで、生きる意味に悩むブラックウォーグレイモンに対して、心があるなら友達になれる、友達になれるのであればそれで十分ではないかと返すアグモンの話をした。*1自分の役割を求めるのではなく、他人との関係性によってじぶんの人生に充実を見出そうという考え方である。

 

十二国記の陽子の考え方を借りるのであれば、プラスマイナスがマイナスになったとしても、それは僕が自分の時間を他人のために使わない理由にはならない。

 

すべき仕事

自分が自分のために何かをして、それで他の人も喜んでくれたらそれはとてもいい状況だ。そのようなことがあるならそれを何度でも反復するべきだ。(たぶん僕の場合、インプットを仕入れて編集し他の人ににとって意味のある形で提供することや、データを分析してなにかしらの示唆を出すことがそれにあたる)

自分としてはたいして美味しくないけど、他人に喜ばれることがあるとしたら、それはするべきだ。

与えすぎで困ることは、ぼくがインプットを仕入れる時間が少なくなり他人に長期的に有用な示唆を与えられなくなることだ。それだけに気をつけていたらいいのだと思う。

 

自分がどのように見えているのかに気を使うということ

今日は友人と秋葉原をぶらぶらと散策していた。

秋葉原を歩いていると、寝癖がついたお兄さんたちがとても多く、同類に出会えたような安心感を覚えてしまう。(秋葉原という街にはとても魅力を感じているのだけれど、その話はまた今度)

この秋葉原から万世橋を渡り神田のほうにいくと、高架下を利用した大変お洒落なカフェがある。このカフェにいくと、秋葉原を楽しそうに歩いているオタクたちとはうってかわり髪の毛がさらさらで雰囲気がきらきらとした大変綺麗なお姉さんたちが楽しそうにお話しをしている。

ほんの1、2ブロックだというのに歩く人の雰囲気がこんなにもかわるものだなあ、と感心していた。

 

彼女達をみて、オタク達とは全然ちがうよなあと思ったが、いや待てよ俺もどちらかというとオタク側だ。人にどうみられるのかをあまり気にせずにいる。

彼女達ぐらいに綺麗でいるためには、自分の中にこのぐらいの綺麗な自分でいなくてはという基準があるに違いない。もちろん僕にもあるのだが、彼女達のそれに比べれば僕の基準なんてとんでもなく低いものだろう。

この自分のあるべき姿の基準に関していえば、髪や顔をどれだけ綺麗にしているのかではない。発する言葉、立ち座る姿、人に向ける表情、仕事のときの姿勢、成果物の水準、、、いくらでもある。

 

もちろん人の目ばかり気にしているのもいかがなものかという気もするが、人様から見て恥ずかしくない自分であろうというのはいい心がけだろうし、見習っていきたいものだ。

最近は体も鍛えていないものだからだらしない体付きをしているし、話し方にもあまり気を遣っておらずついつい緊張して早口で話してしまったりまとまりのない話し方をしてしまったり、ということも。

理想の自分とはこういうものだ、というのが特に自分の中にあるわけではないのだけれど、それを仮にでも見つけて自分をそこに合わせていくというのを久しぶりにしてみてもよいだろう。*1

*1:いま見ている昭和元禄落語心中の8代目や、組長さん、十二国記のギョウソウや延王といった魅力的な人物になりたいものだ。僕はどちらかというと豪放磊落という感じの性格ではないが、図体がでかいのでしっかりしている安定した感じを出せると良いのだろう。

デジモンラスエボ感想(ネタバレあり)

一昨日公開されたデジモンLast Evolution絆をみてきた。

このためだけに、02も全話見直しておいてよかった。

以下、つらつらと感想をかいていますが、ネタバレを堂々と書いているので気になる人は読まないでね。

 

本作のあらすじ

本作のテーマは別離である。

大学生になり少しずつ将来の道が決まりつつある太一たちが、「選ばれた子供たちが大人になってしまったらパートナーデジモンとのパートナー関係が解消される」という新たな事実に直面し、葛藤しつつそれを受容し乗り越えていくというストーリーである。

パートナーの喪失を経験するぐらいなら子供のままの楽しい記憶に浸っていたいという敵に対して、太一と大和は喪失を受容したうえで現実と向き合い生きていくことを選択した。そうして2人はパートナーに最後の進化(これは新たな形態への進化でアグモン-勇気の絆、ガブモン-友情の絆というものらしい)をさせて、敵を打倒する。

 

ラストシーン、敵を打倒した2人には、自分たちが選択した通りに最後の別れが待っている。*1

この最後の別れのシーンはとても良かった。

ハーモニカと夕暮れ、静寂の演出は、太一と大和の喪失感を観客に共有するのに十分なものだった。

そして同時に、これまでの冒険を見てきた観客は、2人が別れを受容しすこし時間はかかるかもしれないけれどもこの別れを克服するだろうということを感じとることができる。

世界は彼らをいつまでも子供ではいさせてくれないのだし、いや世界がそれを許したのだとしても、彼らは少しずつ大人になっていっているのだ。

 

デジモンの役割

エンドロールではすこし見逃してしまったのだけど、02世代の選ばれし子供たちはパートナーデジモンと一緒にいる姿が描かれているが、無印世代の描写ではデジモンではなく周囲の人間と、自分の夢に向かって活動している姿が描かれている。

デジモンとは、子供たちを大人へと成長させる触媒だったのかもしれない。

子供が大人に成長するまでと、大人がさらに成熟していくまでにはまた別の経験が必要だ。

選ばれし子供たちはそれぞれの現実で戦っていくのであり、そこではたとえば明確な敵とたたかうことではなく、地道に勉強を重ねる、職業経験を重ねる、組織の中での調整能力を獲得していく、リスクをとっていく、家計を支えていく、といったことが求められていく。

子供たちの成長を促す触媒としてのデジモンは役目を終えるのである。

彼らが夢を叶えるまでの道程

02最終話では無印世代、02世代が自分の夢をパートナーデジモンとともに叶える姿が描かれているのだが、本作では話の端々に太一たちのキャリアが02の最終話に向かっていることが示唆されている。*2

そのことを考えると、今回パートナーを喪失してから夢を叶えるまでの間でパートナーデジモンとの再会があるのだろうし、映像化されてほしいなと思う。*3*4*5

 

 

*1:ここでやっぱり一緒にいられそうです、なんてことにならなくてよかった。自分たちが勝ち得たのではないハッピーエンドなんて安直な物語では、誰の心にも響かない。子供たち向けに放映されていた無印や02では、苦難を乗り越えた先には楽しい未来が用意されていた(02の最終話)ことと比較すると、今回のストーリーはやはり大人に向けたものであるといえよう。

*2:作中では進路に悩んでいた太一はおそらく早稲田の政経のようなところにいるし、太一の卒論のテーマはデジモンと人類の共生であった。02最終話にある通り最後にはデジタルワールドと現実世界を結ぶ外交官に着地することは十分に納得できる。

*3:4月から無印が新解釈されたアニメシリーズが始まるらしいが、そこでは描かれないだろう。あまり期待はせずに首を長くして再会編を待っていたい。

*4:太一たちにとって成長の触媒としての役割をもっていたデジモンであるが、02最終話のころには太一たちの子供世代にとっては成長の触媒であり、太一たちにとっては良き隣人としての位置づけになっているような節がある。

*5:太一たち世代がデジタルワールドによる現実世界への被害を食い止めていたわけだが、後進は育っているのだろうかとふと疑問に思った。

世界に影響を与えていくということ

上司に、「君はポテンシャルはあるのだがそれが十分に表出していない。それでは評価しきれない」というようなことを言われた。(他にも技術的なことも言われている)

帰りの地下鉄でつり革につかまりながら、そういえば俺って昔からそうだったかもな。。なんて考えていた。

 

ここ数年、何か人に影響を及ぼすことに対して慎重になっているきらいがある。

一番慎重になったのは、当時付き合っていた遠距離の彼女が僕のために東京で就職することの背中を押したときだと思う。それから、僕のことを慕ってくれていた後輩が大学受験で上京することについて冷静に考えたほうがいいと伝えたときもそうだ。(なんだかモテエピソードだなこれ)

他にも、学生寮の寮長をしていたときには、よくある人間関係の問題に対して(当事者でありながら)傍観を決め込んでしまい、ずるずると問題を先延ばしにしてしまっていた。

 

世界に対して、というと大げさなので、他人に対して、という表現を使うが、他人に対して何か影響を与えることにとてもためらいがある。

それは、自分が相手の行動の変化によって発生する結果の責任を負えないからということもあるし、その影響を与えることによって自分が失敗することに恐怖を感じているからというのもあるだろう。

ほかにも、働きかけをした際にその働きかけが成功することなく、それは違うと反駁されてしまうことが怖いからかもしれない。

(確かに僕は、人にNoといわれることが怖いし嫌だし、Noと言うことにも慣れていない。できればNoのない世界で生きていたい。参謀ポジションが好きなのは、一番自分が傷つかなさそうだからだ。Noを避けたいという安直な願望については、また別の機会に書いてみよう)

 

でも、僕は世間にある重大な問題の解決に貢献したいと思っているのだし、そのためには人を巻き込み、人の行動を変え、社会を動かしていかなければならない。

(世界を動かすというと、動かす対象の解像度が途端に低くなってしまうから、できれば今度からは具体的な対象を指定できるとよいな)

 

どうしたらそんな自分になっていけるのだろう。

案1として、何かロールモデルを探したほうがいいのだろうか、なんて考えていた。けど、僕が憧れがちなのはいわゆるダークヒーローで、裏から世界を動かすほうがカッコよく見えてしまうので、ロールモデル探しも難航しそうだ。

そこで案2なのだが、失敗する芽を少しでも摘んで、もうこの状態なら失敗の可能性はないだろう、という状況を作り出していくのがいいかもしれない。であれば、臆病な自分にもできるし、向いている。

そうして少しずつ他人に影響を与えることを覚えていこう。