Alexa、僕はあの日夢見た僕にはまだなれていないんだ。

庄兵衛はお奉行様の判断を、そのまま自分の判断にしようと思ったのである。(森鴎外『高瀬舟』)

高瀬舟は、単純化された世界観への批判の物語である。

 

流罪となった罪人を都(京都)から流刑地に運ぶのが、京都の高瀬川を下る高瀬川であった。物語は、高瀬舟の上で行われる罪人喜助と同心羽田庄兵衛の会話を通して展開される。

喜助が問われた弟殺しの罪は、実は不治の病に冒された弟が兄に負担をかけまいと自殺を試み、死ねずに苦しんでいたところに最後の一押しをしてしまったという者であった。欲のない喜助の人間性*1や、事件の真相を知ると、情状酌量の余地ばかりであるように思われる。

 

今、PSYCO-PASSというアニメにはまっている。高度なAI(であるとされている)シビュラシステムが人間の犯罪係数を図り、国民は自分のキャリアや配偶者といった人生のほぼすべてをシステムの判断にゆだねている世界である。

作中では、システムがいいと言っているのだからいい、という教条的価値観に疑問を呈する主人公たちの戦いが描かれていく。

 

いま、喜助の罪に対して、「庄兵衛はお奉行様の判断を、そのまま自分の判断にしようと思った」わけであるが、そこで考えを止めてはいけない。思考停止してはいけない。

彼は一役人であり、考えたからと言って何かができるわけではない。

しかし、考えるか考えないかということと、考えた結果自分に何ができて何ができないのかは、別の問題である。

(問題解決が目的であれば、もちろん自分にできることを前提に考えるべきであるが、これは問題解決が目的の状況ではなく、一人の人間が世界に対して真摯に向き合って生きていくことが目的の状況なのである)

*1:喜助の謙虚な人間性を主張するために、失業し借金をしてきた生活に比べれば、流刑に際して渡される200文の貯蓄がある生活のほうが嬉しいのだというエピソードが挿入されている。流刑はこれまで苦しい生活を送ってきた自分にしてみれば、むしろ望ましいものだと。牢に入る間に提供される食料もありがたいのだと。

人には欲があるものだし、自らの境遇を受け入れられないものだ。不遇であれば不満が生まれ、仮に不便がない生活をしていたとしても、もっともっと良い境遇にあったらと欲が尽きることはない。

しかし、この罪人喜助は、そうではない。弟が病にあっても不平を持たず、牢に入れられても生活が上向いたと言う。流刑になっても貯蓄ができたと言う。

庄兵衛には彼がまぶしく見えた。