庄兵衛になれるだけでも大したものである
前のエントリで、森鴎外の高瀬舟とは単純化された世界観に対する批判の物語であることを話した。
不治の病に冒され自殺を試みたが死に損なって苦しんでいる弟を、これ以上苦しめまいと手に掛けた兄。欲のない性格のこの兄(喜助)をどう裁くのが良いことなのか判断ができず、結局「庄兵衛はお奉行様の判断を自分の判断にしようと思った」のであるが、庄兵衛は途中で結論を出すことを放棄してしまったものの、その思考態度は認めるべきだなと思う。
今、コロナ禍でいろんな情報が出回り、それに対していろんな人がいろんなお気持ちを表明している。しかし、それらの情報はまだ正解が見えない中で一定の目的のもと試行錯誤され出てきている施策・情報であり、それらに対して十分に吟味されないまま尚早な批判がなされているように見える。(Yahooニュースのコメント欄なんか、本当に見るものではない)*1
庄兵衛は当人である喜助から情報を集め、それについては尚早な決断を下すことなく、悩んだのだ。その点は、一市民としては、極めてまともな感覚だと言えるだろう。