Alexa、僕はあの日夢見た僕にはまだなれていないんだ。

とにかくgiveをしていくことだけが僕の抱えている焦燥から解放してくれるのではないか

仕事をして、土日には仕事のストレスを解消し、仕事で得た金は生存と仕事の生産を維持するために消えていく。

(いまは趣味も充実してきたし友達とよくあって話しているからそこまでではないんだけど)アニメをみて平日の夜の時間はなくなり、やがてまた仕事を迎える。

そうして自分の人生の時間を浪費していくことに対する焦りを感じていることがあった。 

この焦燥感から解放してくれるのは、他人にとにかくgiveしまくったという事実

が世界に残ることなのではないか、という話。

 

 

世界は僕たちに役割を与えてはくれない。役割はないが時間と自由だけが与えられ、それを向ける先がないことに戸惑ってしまう。

世界は役割を与えてはくれない。仮に役割のようなものを感じたとしても、その役割はたぶんぼくでなくてもいいはずだし、その役割がじぶんのものなのかと思っても確証を得られる日は来ないだろう。(いや、いつかこれが僕の人生の役割だと自覚することがあるのかもしれないけれども、それまで待っている間に人生を流すのは得策ではない)

だから、世界から与えられる天職を求めている限り、僕たちは満足な仕事をすることはできない。

なにかしらのレースを用意してくれたら、僕たちはそのレースを走り続けることは得意だろう。車輪をカラカラを回すハムスターだと自覚しながら、そしてそのようなレースにぶつくさ言いながら、それでも頑張ってそのレースを走り続けるのは、実はそれほど困難なことではない。(ある人は、それを受験戦争の負の遺産と言っていた)

しかし実際には、広い世界に身一つで自由な自分だけがあり、そしていつまで続くのかはわからないが無限にも伸びそうな時間が用意されている。

この時間は、なにもしないには大変長い。用意された自由と時間とを何につかっていいのかわからないで戸惑っているうちに時間は流れていく。

卑近な例でいえば、土日ですらなにか有意義なことに使いたいと思いながらもそうは使えず、退屈している人はいる。ぼくもそうだ。そして焦る。時間を持て余すという感覚は、なにか大変よくないことだ。

損得計算をしたところで幸福には繋がらない。与えたのと同じだけ受け取ってしまうと、そこに残るのはただ取引のために自分の人生の時間をつかったという事実だけである。

自分が与えた量と同じだけの価値を受け取ることを、取引という。

自分の人生の使い方として取引をするということは有意義なことなのだろうか。

答えは否だ。

だってそれはプラスマイナス0の行為であるが、その取引をしている間に人生の時間は減っている。取引の時間それ自体は、ただの時間の浪費である。

重要なのは、その取引で得たものからどれだけの楽しみを得るかということである。

例えば、スーパーのレジで今夜の晩ご飯につかう野菜と豚肉を買いお金を支払っている時間というのは特に意味はない。重要なのは、それを用いて楽しい料理経験をできるのか、おいしい晩ご飯を食べられるかということにある。

 

ぼくは仕事では、求められているだけの仕事をまずはやればいいんでしょ、と思っていたけれども、それは求められただけの労働を供与し賃金を得るという取引だけを行なっているのであり、それ自体にはあまり意味がない。

それでは、生存を確保すること趣味を楽しむことだけのために仕事をし自分の人生の残り時間を減らしているだけであり、取引の結果を見れば時間がなくなっただけ、という状況だ。

等価交換の取引を行うことは、そこにかけている時間も計算に入れると、トータルとしてマイナスの結論を招くのであり、バランスはしないのである。

取引のためではない時間の使い方とはなんだろう。

 

自由と時間を向ける先が定まっていないのであれば、人のために時間をつかったほうがよい。それは自らに充足感を与える。

相手に与えたものと同じだけを受け取るからよくないのだ。相手から受け取った以上に相手に与えなくてはいけない。

そうすれば、ぼくは世界に対して、ただの取引以上の価値を提供したことになる。

取引以上の価値を世界に提供したのだといえば、ぼくの人生の時間の使い方としてはバランスする。言い訳が立つ。

受け取る以上にgiveをするということは、じぶんの人生の時間を有意義に活用できていることを示す。

鋼錬の最終話でもアルが言っていたはずだ。「10もらって10返してもそのままなので、もらった10に1を足して返す。これが僕たちがみつけた新しい法則です」

 

僕たちは周囲の人間と関係性を築き生きている。

あなたがその人になにかをあげることでその人が喜んでくれ、その喜んでくれたという事実によってあなた自身が嬉しくなったのだとしたら、それで生きる意味としては十分なのではないか。

先日のブログで、生きる意味に悩むブラックウォーグレイモンに対して、心があるなら友達になれる、友達になれるのであればそれで十分ではないかと返すアグモンの話をした。*1自分の役割を求めるのではなく、他人との関係性によってじぶんの人生に充実を見出そうという考え方である。

 

十二国記の陽子の考え方を借りるのであれば、プラスマイナスがマイナスになったとしても、それは僕が自分の時間を他人のために使わない理由にはならない。

 

すべき仕事

自分が自分のために何かをして、それで他の人も喜んでくれたらそれはとてもいい状況だ。そのようなことがあるならそれを何度でも反復するべきだ。(たぶん僕の場合、インプットを仕入れて編集し他の人ににとって意味のある形で提供することや、データを分析してなにかしらの示唆を出すことがそれにあたる)

自分としてはたいして美味しくないけど、他人に喜ばれることがあるとしたら、それはするべきだ。

与えすぎで困ることは、ぼくがインプットを仕入れる時間が少なくなり他人に長期的に有用な示唆を与えられなくなることだ。それだけに気をつけていたらいいのだと思う。