斜めの関係って大事だよねという話
一月前に、職場に後輩がやってきた。
研修が終わり現場配属さればかりの後輩で、2年目の先輩が一年目の彼を指導することになった。
2年目の僕は後輩が先輩に指導を受けているのを眺めているだけであったのだが、この後輩があまりキレキレな感じではなく、しかもコミュニケーションを周りとうまく取れないことによって失敗しそうな気配がしていることにお節介な老婆心がうずいてしまった。
1.観測事実
後輩が、上司に指導されて落ち込んでいるところを目にした。
後日、後輩がウンウンと悩みながら仕事をしているのでランチどきに何で悩んでいるのか聞いたところ、手元のインプットでは情報が不足しすぎて判断のしようがないような状態に陥っていた。
2.状況の解釈
後輩は次のような負のスパイラルに陥っていた。
①キャッチアップが追いつかず期限内に求められているアウトプットを出せない。
②アウトプットの遅れとその理由と言い訳が混同した報告をするため、上司が複数の指摘を行う。
③萎縮して上司をコミュニケーションを取れなくなる。
④わからないことが聞けないため、少ないインプットでアウトプットを出さざるを得ずさらに期待値を下回る。
①に戻る
これではどん詰まりである。
3.決断したこと
この後輩、いまのままだと確実に詰む。
僕は、彼に対して自分のできるヘルプをしてみようと思った。
先輩が優しく指導するからなんとなくその場は乗り切れるかもしれない。
しかし、彼がこの負のスパイラルに陥っていることは僕しか確認できないし、仮に先輩が気づいたとしても先輩のさらなる指導は彼を萎縮させるだけだ。
直接的な指導ー被指導関係にない自分がフォローすることで少しは後輩の成長と仕事の成功に貢献できるのではないかと考えた。
4.アクション
後輩がこの負のスパイラルを抜け出すために僕ができるのは、上述したスパイラルの③でフォローすることだ。
先輩に対する報告相談の壁打ち相手になった。
また、途中で発生した問題であったが、後輩の中では先輩の指導が一貫性のないように見え不満があったようで、指導を受容するメンタル状態が整っていなかった。(まあそういうのよくあるよね)
それに対しては、客観的にみて妥当性が一定あることの確認と、そもそもそのような問題が発生しないような仕事の進め方とコミュニケーションの取り方について説明した。
5.効果
後輩に対する効果:
コミュニケーションをとりに行く頻度が改善されたようだ。
(これって聞いていいのかな、と思うような場面でぐるぐると逡巡していたが、僕に対して「これって聞いていいと思いますか」という質問をして壁打ちを始め、悩まずとにかく聞くべしということが自覚できたようだった)
自分自身に対する効果:
親切心から始めてみたことだったが、思わぬ効果が得られた。
①斜めの関係によるフォローがとても重要だということ(しかも暗黙のフォローがよさそう)
指導ー被指導関係にある二者の間では、あるアクションがマイナスに働く可能性がありえる。全てのオプションを取れるわけではないのだ。また、心理的に直接は言いにくいことも容易に出てくる。そういう時に、この斜めの関係があれば実行できなかったオプションを実行することができる。
②親切にするという行動には以下のような効能がある。
・完全に自分の意思で始まる行動である。その点でタスクを切って渡されることとは全く性質が異なる。
・いつ辞めてもいいことなので、ノーリスクである。
・困っている人に手を差し伸べるということは、他人に対する影響力の行使という意味ではインパクトの大きい部類の行動である。自分の行動の意義を感じやすい。
・行動量を増やすことで思考材料が増える。
・人が想定していない親切とは、あきらかに期待値を超える行動である。我々のような期待値を超えることが常に求められている人種にとって、それは大変よいトレーニング機会である、
思わぬ果実が得られたので、これを機に少しでもGiveすることをふやしていきたいよなと思う。これもまた、大河の一滴である。
追記;
今回の章立ては、OODAループに則って記載した。
事実理解→解釈→判断→実行→実行効果確認→解釈→…
なかなか有用なフレームワークだよな。
『白銀の墟 玄の月』読後感(ネタバレ注意)
十二国記で描かれる心理描写がとても胸に沁みる、という話。
阿選麾下の友尚は、阿選が驍宗暗殺に際して友尚ではなくごろつきの烏衡を用いたことに反感を覚えていた。なぜ烏衡なのだ、と。
「友尚は阿選にそんな道に踏み込んでほしくはなかった。ゆえに加担することには強い抵抗を感じただろう。—しかしながら、だからこそ、自分を使ってほしかった、という思いはある。矛盾するようだが、たぶん友尚は阿選に説得されたかったのだろう。(中略)―お前にしか頼めぬ、と言われたかったのかもしれない。」18章より。
これだよこれ。これが人間というものだ。この多面性が、大河をなす一滴の雫の本性だ。
尊崇する主に対して、罪人に堕してほしくない思う。それは主に対する忠誠ゆえだ。
自分も加担することには抵抗がある。それは同義心ゆえだ。
しかし、主が罪を犯すのであれば、それにはきっとやむを得ない理由があるのだと理解するし、それがどんな理由であれ結局自分は主を信じ従う。それは、自分と彼がともに過ごした時間の重みゆえだ。
そして、それほど重大な罪の共犯者には自分を選んでほしかった。それは、自分の彼に対する信頼が一方方向であってほしくはないという気持ちゆえだ。
最近Twitterや、お手軽な漫画や小説やらにどっぷりつかっているのか、人間の単一の側面にしか目の向かないコンテンツに浸っていたようだ。この人間の多面性を言語化し味わえていない。
単一の感情では物語に深みが出ない。そうした単調な物語ばかりを摂取していると、僕の世界のとらえ方も深みのないものになってしまう。
複雑な感情をとらえ描く作品というのは、大変心地よい。
意識してそうした作品の摂取をしていきたい。
(十二国記シリーズ読後感)人は自らを救うしかないし、自分が果たせる役割を果たすしかない。
昨年10月、11月になにやら書店でたいへんに盛り上がっていることを知り、そんなに面白いなら読んでみるか、その前にアニメから入るか、と思い立ったのが11月の半ば(11/16)。アニメはあまりにおもしろく、十日もたたず11/25にはすべて見終えていた。
それからすぐ、11/29にはアニメ化されていないシリーズ分をすべて購入し、約一か月をかけてすべて読み終え、今日にいたる。
とにかく、この小説群は胸に沁みる。この良さをどう言語化しようと思案していたところ、各巻の解説にて僕の気持ちを代弁するものがいくつかあったので、それを紹介したい。*2
近年、ネット小説を中心に、異世界召喚や異世界転生した主人公が、特別な力で無双の活躍をするファンタジーが流行っている。面白い作品もあるので一概に否定しないが、やはりその根底にあるのは、安直な願望充足である。(中略)作者はそのような願望充足とは無縁であった。緻密に構築された中華風の異世界も、命あるものの感情が満ち、善意と悪意が交錯する。その中で人にできるのは、精一杯生きることだけなのである。(『黄昏の岸 暁の天』細谷正充の解説)
そう、この小説の人物たちの願望はまさに安直な充実を得ることがない。彼ら彼女らは、自分の甘えや無知に対しては必ず世界から清算を求められる。何も働きかけることなく事態は好転しない。
これは、同じく『黄昏の岸 暁の天』*3における陽子と李斎の会話にも表れている。
「だが、天が実在しないなら、天が人を救うことなどあるはずがない。天に人を救うことができるのであれば、必ず過ちを犯す」
「それは…どういう…」
「人は自らを救うしかない、ということなんだ―李斎」
そして、泰麒と李斎の会話にも。
「けれども李斎―僕はもう子供ではないです。いいえ、能力で言うなら、あの頃のほうがずっといろいろなことができた。かえって無力になったのだと言えるんでしょう。けれども僕はもう、自分が無力だと嘆いて、無力であることに安住できるほど幼くはない」
この物語に、わかりやすいヒーローは登場しない。無辜の民であっても、簡単には救われない。救われるのは、自ら立ち上がった者たちだけだ。
ただし、その物語が、読むものに勇気を与える。
「目を逸らさないで私を見て!家族を殺されて全部失くした。これが現実なの!」
(中略)
支僑は言う。「私たちは無力です。これが仕事だからやっているけど、それ以前に、これくらいしかできることがないんです。けれど―」支僑は顔を上げた。蓮花の顔をひたと見る。
「けれど、暦は必要です。こんな時代だから必要なんです。それだけは疑いがない。誰かが暦を作らないといけない。だからそれしかできない私たちがやるんです」
この物語の人物たちは、自分たちの与えられた状況で懸命に生き、それだけではなく、荒れる世にあって少しでもその状況を改善しようと自分たちにできることを一つ一つやっていく。
人間、できることからしか始められないけれども、もっと自分にはデカい仕事があるはずだ、あっちの仕事のほうがかっこいい、という気持ちに陥りがちだ(ぼくがそうだ)。そして、あろうことか、自分にあの仕事をさせてくれない周りが悪い、なんてことを言いだしてしまう。
でも、まずは自分の役目を果たすことから始める。できることから、すべきことから、始めていく。この物語の人々は、どこまでも人間臭い。どこまでも人間臭いのに、安きに流れず、自らに打ち克つ。その姿を見て、心が震える。僕にもできるのではないか。
僕の目指すべき、人の生きる様とは、このような姿なのではないかと、思う。
このシリーズが読者にもたらす興奮は、一過性のものではない。”決して自分にできないこと”ではなく、必ず”自分にだってできること”があると思い知る―自分を発見する喜びと表裏一体だから、読む者の心をいつまでも揺さぶり続けるのだ。 (『丕緒の鳥』辻真先の解説)
2020年は自信をつけていきたい
皆さま、あけましておめでとうございます。
2019年末に開始した当ブログ、2020年も引き続きよろしくお願いいたします。
2020年最初のエントリーは、どのようなスタンスで過ごしていこうかという話です。
自己評価を上げていきたい
2019年を振り返る中で、2点気づいたことがありました。
①社会人2年目として1年間頑張っており、結構できることが広がっていた
②2019年中の各段面ではあまり成長実感はなく、むしろ自己評価は低めだった。
①について、1年目だった自分は満足に周囲とコミュニケーションもとれず、社会人としての振る舞い方もわからず、右往左往陰陰鬱々としていた、というのが実際のところ。
それが2年目になって、基本的なビジネスマンとしての振る舞いができるようになったと感じているし、若手に求められる基本的なタスクはだいぶ処理できるようになってきたように思う。データ分析ができる若手、という方向でスキル伸長・キャリア向上を図りたい。
②について、このエントリで細かく見ていきたい。
現象:自己評価が低いと感じた場面
現職の評価制度は大雑把に言えば、年間パフォーマンスをA、B、C、D、Eの5段階で自己申告し、それを上司が承認することで評価 が決定する仕組み。これまでは基本的にCで申告しており、上司もそのまま承認をした。
しかし、自分とたいして能力の変わらない同期がBで自己申告しB評価を得ているのを見てしまった。
AやBで申告できる人間の何がすごいって、もちろんそれだけのパフォーマンスを出せることもすごいのだけど、パフォーマンスが追い付かなくても過大評価することができることがすごい。
推察:自己評価が低い理由
自分が申告した評価が低い理由として、以下の2点が挙げられると考えた。
①実際にパフォーマンスが低い
②インポスター特性がある
このどちらかというわけではなく、どちらもあると思う。
(①だけであっても自己評価を高く設定することはあり得るし、②だけなら自己申告後に上司が評価を上方修正するだろうから)
①については2020年も頑張りましょうという話なんだが、②の場合にはその心理的特性があることを把握しておく必要があると考えた。だって、無意識に何かしらのバイアスや特性を持っている場合には、それを自覚し取り除けるようにしないと世界を間違った目で見てしまう可能性があるからね。
調査:インポスター特性について
藤江2009『インポスター現象研究の概観』を参照した。
定義:インポスター現象とは
客観的に高い評価を得ている分野について、評価が高いのは運が良かったためで実際には自分には能力がないのだと感じ、同時に能力がないことを他者に見破られてしまうのではないかという不安を感じる経験*1
留意事項:インポスター現象と近い概念
インポスター現象は、成功に伴うネガティヴな結果を懸念する傾向である成功恐怖*2や、失敗を恐れる傾向である失敗恐怖と重なる部分が大きい
→つまり、インポスター現象を疑う場合には成功恐怖や失敗恐怖ではないかを疑えばよい、と言うことか。
インポスター特性の研究におけるトレンド
インポスター現象は自己呈示方略なのではないか、という考えに基づいた研究が見られるようになった。インポスター特性の高い人たちは、匿名の場合に比べて回答内容が実験者に公開される状況では、これから行う課題への期待や課題の重要度、妥当性を低く評価する傾向にあることが示された。(Leavy et al, 2000)
インポスター特性の発現に関する著者の仮説
成功恐怖・失敗恐怖・プライド毀損への恐怖から、人は自己卑下的な自己開示を行う(セルフハンディキャッピング)。ただし、自己呈示には、自己概念を呈示した方向に変容させる効果があることがしられている。(キャリーオーバー効果;Schelenlerm 1994)つまり、自己卑下をしているうちに自分を実力のない人間であると評価するようになり、インポスター現象を発現する。
教訓
セルフハンデキャッピングを極力減らしていかないと、自己評価が下がってしまい挑戦をしなくなりそう。大言壮語を放言していかないと、自分の能力も育てられないだろう。
ただ、周囲の人間に対して、特に自分のパフォーマンスを知っている人間に対して、大言壮語を放つのはなかなか難しいものがあるように思う。そのため、こういった場で放言していきたいと思う。
複数のパーソナリティを運用することで、単一パーソナリティで生じるデメリットを解消することも良いかもしれない。
※自分ができることを見極める、自分ができないかもしれないが挑戦する価値のあることを定義する、というのは大変に重要なことだと思う。
仕事を断ることについて
最近、この仕事くそだなーと思うことがあったところにちょうどいい記事が流れてきたのでそのメモを残しておく。
キャリアサイトのTypeが、20代の仕事の断り方というテーマで編集者の箕輪氏と産業医の大室氏にインタビューをした記事。
仕事を断ることについての著名人のスタンス(N=3)
①箕輪氏の意見
箕輪氏の主張は、成長という観点では仕事を断るべきではないというもの。
(ただし、引き受ける際の注意点として、つまらない企画だと思ったなら本音からは迎合しないこと、自分の目標に照らして仕事の価値を位置付けることが重要と説いている。)
インタビューの最後は、仕事を断る/断らないは自分の中で筋が通っていればよいというコメントで締めくくられている。
②大室氏の意見
一方、大室氏の主張は、周囲からの信用を獲得するという観点では、相手を助けるために仕事を断るべきではないというもの。
(この前段として、健康を維持する観点ではオーバーワークは避けるべきだし、ジョブ型雇用環境で専門性を向上する観点では雑用よりも専門性に資するタスクのほうが重視されて仕方ないことを説明している)
インタビューの最後は、相手が困っているなら断らない、困っていないなら断るればよい、というコメントで締めくくられている。
③参考:山口氏の意見
なお、コーンフェリーの山口氏の主張は、彼の著書によれば評価にも成長にもつながらない仕事は6割ぐらいの出力でやっていればよいというもの。適当にやり過ごす、仕事の優先順位の決定権を握りに行く、どうしようもなければ環境を変える、という順で対応することを説いている。
所感
結局は、今後の自分の中長期パフォーマンス向上に資するか否かで仕事を断るか否かを決めよう、という話である。
中長期所得or中長期パフォーマンス
=f(スキル)+h(健康)+g(信用)
※ただしどの変数も仕事を引き受けるか否かにより変動する。
という方程式を最適化してみなさいよ、ということと理解した。ちょっとすっきり。
覚えておいたほうがいい数字
社会人として働き始めてからおよそ二年が経とうとしている。
その間に得たいくつかの学びの一つに、会社の経営を見る際の比較材料としていくつかの数字を覚えておいたほうがいいということは考えていた。
1. 大まかな数字(売上と経常利益)
例えばこのサイト
- 日本で最も売上が大きい企業はトヨタで約30兆円。
- 10兆円企業は2-6位の5社
- 1兆円以上の企業はだいたい150社ぐらい。
- 5000億円以上の企業はだいたい300社ぐらい
経常利益(例外的な収支=特別利益/特別損失を除く収支)で言えば、
2. 大まかな数字(スタートアップ)
比較対象として、うまくいっているスタートアップってどのぐらい儲かっているものなのだろうか?一例として、最近Twitterでフォローしている福島さんが立ち上げたグノシーを例にとる。
- 売上150億円
- 経常利益2200万円
3. 他に見ておきたい数字
とりあえず、日本の会社の売上/利益について、数字の規模がどのぐらいなのかをざっくりと見てみた。
このぐらいの数字は頭に入っていてよかろう。
さらに世間の数字に詳しくなるためには、手元にある以下のような本を参考にして世間のいろいろな指標を眺めてみたい。
例えば固定比率だけ調べまくって、いろんな会社の指標調査100本ノックなんて企画をするのもいいかもしれないね。
学習量を増やすということ
1. 日本人の学習量が足りないことの指摘
何年か前に見た記事をながらくブックマークしていたのだけど、せっかくだしこの場で供養しておこう。
当時MITメディアラボの所長をしていた伊藤穣一氏(性的虐待で逮捕された富豪からの献金を受けていたことによる引責辞任で今は所長を退いている)と、戦略コンサルタントとして有名な波頭亮氏の対談。
2013年当時のもので、日本から世界に羽ばたくスタートアップが生まれない要因の一つが、日本人の学習量の不足であることを説いている。
コンピュータ・サイエンスをやっている学生が、「ちょっと行ってくる」と言ってスタンフォードでバイオロジーのPh.D.を取得し、またMITメディアラボに戻ってきて、遺伝子とコンピュータをつなぐ新しい研究を始めるといったことが日常的に行われているんです。これはメディアラボだけの話ではなく、米国の大学教育では一般的なことです。
本当か?
僕はバチェラーまでしか持っていないから、Ph.D.を複数持つというのはいまいちイメージがわかないんだよな。一般的には学歴はいいほうだけど、まあ自覚としては大いに凡人。学習量で盛り返すしかないと認識はしている。
波頭 まったく同感です。同感であるからこそ、あえて言うと、コンピュータ・サイエンスをやっていた人間がバイオロジーでPh.D.を取るというのは、実は大変なこと。それだけのことができる知的トレーニングが徹底的になされているということです。それが世界のエリートであり、日本のエリートにも同じことができるかというと、大きな疑問符がつきます。
最近見た、最もショッキングな数字は、大学卒業までに読むテキストの量の日米比較で、米国の大学生は4年間で400冊読むのに対して、日本の大学生はわずか40冊しか読んでいないということらしいです。本を読んで理解するというのは、スポーツでいえば筋力トレーニング。その基礎的なトレーニングが、日本人は圧倒的に少ない。
伊藤 おっしゃるように、コンピュータ・サイエンスの筋トレがしっかりできていれば、そこにバイオロジーの知識や研究成果を乗せることができますが、筋トレをやっていないと、乗せたくても乗せることはできませんね。
波頭 基礎学習、さらにいえば努力の総量が、日本人には足りないように感じます。日本でエリートだった人間も、米国に留学すると、あまりの学習量の違いに皆ショックを受けるようです。米国に限らず世界のトップランナーたちはそれくらい勉強している。ちょっと日本人はラクしすぎていると言わざるをえない。
2. 日本社会で学習の蓄積が求められる場面があるのかという疑問
世間対比ではそこそこ勉強していると思っている僕であるが、実際には大した量の勉強はしていない。至らない点と自覚もしている。
ただ一方で、勉強をしない言い訳ではないのだが、日本社会では学習量を評価する仕組みになっているのか、という疑念もある。
雇用慣行が専門性を要求しない
日本の雇用形態の特徴の一つにメンバーシップ型の雇用である点が挙げられる。(この議論はさんざんされてきたことだから、詳細は割愛)
その結果、人に仕事を割り当てることになるため、その人の専門性に合致する仕事があればいいけど、そうでない場合にはとにかく未経験分野の仕事を振らざるを得なくなる。
僕はいまプロジェクト単位での仕事をしているけど、この会社ですら結局は雇っている人間になんとか仕事を割り当てるような形になっている。いわんや世間の日系企業をや。
※ここでは、そのどちらが幸福かという議論はしない。
専門性よりもキャッチアップの速さが要求される
それに加えて、そのような雇用慣行のもとではそれまでの蓄積ではなく、新しい仕事やその環境にいかに早くキャッチアップするかが求められるようになる。
勿論、学習経験が多いとキャッチアップに慣れがあるということはあるかもしれないが、学習対象が日々のオペレーションへの順応だったりすれば、結局はそれも誤差の範囲だ。
専門性が見えないし、見えても評価できない。
そのように、蓄積した専門性が生きない環境では、そもそも専門性が表出しないのだから専門性なんてあってもなくても表面上は変わらない。
それに、仮に専門性によるアドバンテージが顕在化することがあったとしても、専門性をもたない上司がそれを評価できる場面は少ないだろう。
さらに、もし上司がそれを評価できたとしても、結局その評価が給与や待遇に反映されるかというと、そんなことはない。年功序列賃金制に基づいているからだ。
3. 専門性のある人は
故に、そもそも専門性がいきる会社で働くことを選ばないことには、専門性なんてあったところで、という話になる。
でもそういう会社は、希少すぎてみなが求めるから、倍率が上がりがちになることだろう。
その結果、ちょっとした専門性ではだめで、他を差し置いてポジションを獲得できるだけの専門性が必要になる。いばらの道だ。
となると、雇われるよりも自分で自分の専門性が活きる仕事を作り、自分で経済活動を行うほうが有意義ではないか?
だって、問題は人に仕事を割り振るからミスマッチが起きているのであり、自分が仕事を作り出せば自分の専門性にあった仕事を自分でふることができるようになる。
4. 僕は明日からどうしよう
とりあえず、何かあったときにデータ分析のお仕事とかを一人で受注して対応できるぐらいのスキルはほしいな。
今の仕事の延長で勉強できるのであれば、それを活かしたいものだ。
P.S.
この記事は、もう少し引用と注釈を追記して、読みでのある記事に育てたいな。