Alexa、僕はあの日夢見た僕にはまだなれていないんだ。

学習量を増やすということ

 

1. 日本人の学習量が足りないことの指摘 

 何年か前に見た記事をながらくブックマークしていたのだけど、せっかくだしこの場で供養しておこう。

 

当時MITメディアラボの所長をしていた伊藤穣一氏(性的虐待で逮捕された富豪からの献金を受けていたことによる引責辞任で今は所長を退いている)と、戦略コンサルタントとして有名な波頭亮氏の対談。

2013年当時のもので、日本から世界に羽ばたくスタートアップが生まれない要因の一つが、日本人の学習量の不足であることを説いている。

 

コンピュータ・サイエンスをやっている学生が、「ちょっと行ってくる」と言ってスタンフォードでバイオロジーPh.D.を取得し、またMITメディアラボに戻ってきて、遺伝子とコンピュータをつなぐ新しい研究を始めるといったことが日常的に行われているんです。これはメディアラボだけの話ではなく、米国の大学教育では一般的なことです。 

 

本当か?

僕はバチェラーまでしか持っていないから、Ph.D.を複数持つというのはいまいちイメージがわかないんだよな。一般的には学歴はいいほうだけど、まあ自覚としては大いに凡人。学習量で盛り返すしかないと認識はしている。

 

波頭 まったく同感です。同感であるからこそ、あえて言うと、コンピュータ・サイエンスをやっていた人間がバイオロジーPh.D.を取るというのは、実は大変なこと。それだけのことができる知的トレーニングが徹底的になされているということです。それが世界のエリートであり、日本のエリートにも同じことができるかというと、大きな疑問符がつきます。

最近見た、最もショッキングな数字は、大学卒業までに読むテキストの量の日米比較で、米国の大学生は4年間で400冊読むのに対して、日本の大学生はわずか40冊しか読んでいないということらしいです。本を読んで理解するというのは、スポーツでいえば筋力トレーニング。その基礎的なトレーニングが、日本人は圧倒的に少ない。

伊藤 おっしゃるように、コンピュータ・サイエンスの筋トレがしっかりできていれば、そこにバイオロジーの知識や研究成果を乗せることができますが、筋トレをやっていないと、乗せたくても乗せることはできませんね。

波頭 基礎学習、さらにいえば努力の総量が、日本人には足りないように感じます。日本でエリートだった人間も、米国に留学すると、あまりの学習量の違いに皆ショックを受けるようです。米国に限らず世界のトップランナーたちはそれくらい勉強している。ちょっと日本人はラクしすぎていると言わざるをえない。

 

2. 日本社会で学習の蓄積が求められる場面があるのかという疑問

世間対比ではそこそこ勉強していると思っている僕であるが、実際には大した量の勉強はしていない。至らない点と自覚もしている。

ただ一方で、勉強をしない言い訳ではないのだが、日本社会では学習量を評価する仕組みになっているのか、という疑念もある。

 

雇用慣行が専門性を要求しない

日本の雇用形態の特徴の一つにメンバーシップ型の雇用である点が挙げられる。(この議論はさんざんされてきたことだから、詳細は割愛)

その結果、人に仕事を割り当てることになるため、その人の専門性に合致する仕事があればいいけど、そうでない場合にはとにかく未経験分野の仕事を振らざるを得なくなる。

僕はいまプロジェクト単位での仕事をしているけど、この会社ですら結局は雇っている人間になんとか仕事を割り当てるような形になっている。いわんや世間の日系企業をや。

※ここでは、そのどちらが幸福かという議論はしない。

 

専門性よりもキャッチアップの速さが要求される

それに加えて、そのような雇用慣行のもとではそれまでの蓄積ではなく、新しい仕事やその環境にいかに早くキャッチアップするかが求められるようになる。

勿論、学習経験が多いとキャッチアップに慣れがあるということはあるかもしれないが、学習対象が日々のオペレーションへの順応だったりすれば、結局はそれも誤差の範囲だ。

 

専門性が見えないし、見えても評価できない。

そのように、蓄積した専門性が生きない環境では、そもそも専門性が表出しないのだから専門性なんてあってもなくても表面上は変わらない。

それに、仮に専門性によるアドバンテージが顕在化することがあったとしても、専門性をもたない上司がそれを評価できる場面は少ないだろう。

さらに、もし上司がそれを評価できたとしても、結局その評価が給与や待遇に反映されるかというと、そんなことはない。年功序列賃金制に基づいているからだ。

 

3. 専門性のある人は

故に、そもそも専門性がいきる会社で働くことを選ばないことには、専門性なんてあったところで、という話になる。

でもそういう会社は、希少すぎてみなが求めるから、倍率が上がりがちになることだろう。

その結果、ちょっとした専門性ではだめで、他を差し置いてポジションを獲得できるだけの専門性が必要になる。いばらの道だ。

となると、雇われるよりも自分で自分の専門性が活きる仕事を作り、自分で経済活動を行うほうが有意義ではないか?

だって、問題は人に仕事を割り振るからミスマッチが起きているのであり、自分が仕事を作り出せば自分の専門性にあった仕事を自分でふることができるようになる。

 

 

4. 僕は明日からどうしよう

とりあえず、何かあったときにデータ分析のお仕事とかを一人で受注して対応できるぐらいのスキルはほしいな。

今の仕事の延長で勉強できるのであれば、それを活かしたいものだ。

 

 

P.S.

この記事は、もう少し引用と注釈を追記して、読みでのある記事に育てたいな。

 

 

 

 

 

 

十二国記を通して独立不羈の生き様と自分の責任で自分の人生を生きるということを学ぶ。

最近は、十二国記という作品にはまっている。

11月に十数年ぶりに?シリーズの新刊が出たとのことで、数年来のファンは大盛り上がりをしていた。

書店でも大いに取り上げられていたものだから、気になっていたし、せっかくの機会だからということでまずはアニメシリーズを見始めた。そうすると、これがなかなか面白くてすっかりはまってしまい、アニメ化されていない分の小説を大人買いして読み始めた次第。

 

作品全体に底流しているのは、このエントリーのタイトルにもある独立不羈の心。それともう一つ、自分の責任で自分の人生を生きていくということ。

 

この作品では、様々なキャラクタが自らの不遇を嘆いている。それらの中には、ある意味仕方のない不幸や、理不尽と言える困難に見舞われている者たちもいる。

しかし、この小説の中の登場人物たちは、ただ嘆くだけの人々にときに厳しすぎるのではないかと思うほど、自分の生に責任を負うことを求める。

 

 

 

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孤児の清秀は、いわゆる不幸マウントをとる鈴を厳しく批判する。
本当に苦しかったら、人間はそこから抜け出すために必死になる。抜け出さなかったのは、姉ちゃんは不幸に気持ちよく浸ってただけじゃないのか。そんなやつにどうして同情してくれるのさ。 

 

 

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乱心し政治を乱した王の娘にも、その責任はある。何も知らされていなかったとは言え、罪であることには変わりないのだと、隣国の女王は、厳しい態度を貫く。
父親をたしなめる分別ももてず、遊んでくらしていた愚か者をあわれむ慈悲なんて、持ち合わせがないの。麒麟じゃないから。

 

 

 

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楽俊もまた、王の娘は無条件の厚遇を得ているからこそ、その対価として政治への責任を果たす必要があると説く。自分を厚遇してくれている世間の現実を知ることが、責任を果たすことの一歩目であるということなのだろう。
「知ってなきゃいけなかったんだ。公主の祥瓊より、おいらの方が芳に詳しい。それって襤褸を着るよりも恥ずかしいことだって、分かってるか?」「毛織物の服は恥ずかしいかい?けど、世の中のほとんどの人はそれを着てる。誰もそれを恥じねえのは、それが自分の手で働いて得た最上のものだからなんだよ。」「なんの努力もなしに与えられたものは、実はその値打ちぶんのことをあんたに要求してるもんだ。 」

 

 

 

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珠晶は、「大人が行かないのなら私が蓬山をめざす」といい昇山し供王となったのだった。

 「あたしは子供で、国の難しい政のことなんて、なんにもわかりゃしないわ」「それが分かっているなら、なぜ昇山するんだい?」「義務だと思ったからよ!・・・国民の全員が蓬山に行けば、必ず王がいるはずよ。なのにそれはしないで他人事の顔をして、窓に講師を填めて格子の中から世を嘆いているのよ。—ばかみたい!」

 

 

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俺は、俺の人生に責任をもっていただろうか。ベストの選択をしてきただろうか。

責任を果たすとは、なかなかに難しいことであるが、やっていかなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

転職を考えている。

今の仕事は決して世間の評価は悪くはないのですが、もうそろそろ潮時でやめるかもなという気持ちがあります。

 

もともと長く続ける気もなかったですし、タイミングの問題ではあったと思うのです。

ただ、そのタイミングがそろそろ迫っているなという気はします。

 

理由① 楽しめていない。

今の仕事を楽しいと思えていない。世間に対して大きな意義があるとは思えていない(より正確に言うと、今の仕事以外にやるべきこと求められていることが他にもあるのではないかなという気がする)

 

理由② この環境で成長することが望ましいとは考えていない。
今の職場ではできるようになるべきことがまだまだありはするが、このままこの山を登っていくことが正しいのかどうかはわからない。

40過ぎのマネージャーディレクターや30手前の先輩を見て、このままこの仕事ができるようになることがいいことなのか、楽しいと思えるのか、俺をここに配置するべきなのか、というと、それは否である。

 

今後の活動予定

いつ転職するのかというと、次のボーナスのタイミングは一つの節目なのかなという気がします。

どこに転職するのかというと、それはまだ全くの未定。

いまはコンサルのお仕事だけど、転身先としては以下が候補。これから少しずつ情報収集していこうかな。

①他のコンサル(戦略とかMAとか中小やベンチャーよりもあり)②ファンド③スタートアップ④起業

 

 

ブログを始めます

はてなブログを始めてみることにしました。

 

最近、自分があるべきと考えている速さで頭が回転していないような気がしていて、アウトプットする場を設けることで頭の回転を速くするトレーニングをしようと思っているのです。

 

理想状態

僕が理想としている状態の一つに、何事につけ自分の鋭い意見を述べられることがあります。

自分はそこそこいい大学を出ているのですが、こいつはすごいと思う学友は概して言語化能力が高く、また目の付け所がシャープで、感心すると同時に嫉妬したものです。

また、これまで読んできた本の著者で言えば、佐藤優氏と故瀧本哲史氏は社会的な事象を的確に説明し、その原因や対策について余人とは異なる、しかし大変説得力のある論を展開しています。

さらに言うと、過去の自分を振り返っても、親や後輩や友人に自分の意見を説明しそれに関心を寄せてもらうという体験は、自己肯定感につながるのか、大変快い体験だったと思います。

 

※ここでいう鋭い意見とは、①事象を過不足なく適切に説明している②事実と意見が明確に区別されている③リソースが明瞭な調査による事実に基づく④勉強の成果である知見に裏打ちされた意見である、といった要件を満たすものだと思います。しかし、いまはまだその要件をより明確に具体化することはできていません。

 

現状

最近の自分を振り返ると、そういった鋭い意見を述べることはできているとは言えません。

もともと思考が発散しがちで、構造的に自分の考えを整理することが苦手な傾向にあります。(苦手というか、そもそもそういった訓練を十分に積んでいないのです。パターン認識でこれまでの人生をクリアしてきたので、訓練さえ積めば、結構いい線いくのではという自負はなんとなくあります)

また、意見醸成ができないことの一因として、頭の回転が緩慢になってきていることがあげられます。意見醸成できないこと自体にも負い目がありますが、頭の回転が遅くなっていることで世間や友人に置いていかれるのではないかという焦りが自分の中にはあります。

 

理想と現実のギャップを埋めるために

それゆえ、いまの自分に必要なのは、とにかくアウトプットをする訓練であると思うのです。

本当は対面で意見をいうことを意識したほうがいいのですが、自分は内向的な性格であり、やや心理的なハードルが高いのです。

(その度胸がないことを正当化するために、自分は大したことない人間だ、自分の意見なんか話しても仕方がないというスタンスを取っていることに気が付きました。これは自分に対する思想的暴力であり、自分を殺す行為であると思います。反省です)

 

別にアウトプットは公開する必要はないかなとはじめは思ったのですが、対外的に意見を述べるほうが継続しやすいかなと思いブログという形式を採用した次第です。

はてブロにしたのは、そういうシャープな意見を述べる人達がなんとなくはてブロに多いイメージだったからです。深い理由はありません。

あとは、なんとなくシンプルで硬派な感じがして好きになりました。

 

これからの予定

これからは、できれば週一をマストにしようかなと思っています。最初のうちはデイリーでもいいかもしれないですね。

ということで、初めはなかなか見てもらえないでしょうけど、見てくれる人にはなるべく意義あるものにしたいと思っておりますので、ひとつどうぞよろしくお願いいたします。